つかれぐま

バリー・リンドンのつかれぐまのレビュー・感想・評価

バリー・リンドン(1975年製作の映画)
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「これはジョージ3世の治世。その時に生き争った人々の物語。美しい者も醜い者も、今は同じすべてあの世」

キューブリック最長の上映時間にして最も不人気という不遇。人間観察に徹した「らしい」傑作と思うのだが。

一番の見所は、素晴らしい撮影技術と完璧な調度品で作られた、絵画のような映像美。自然光と(室内シーンは)ロウソクの灯りだけで、一切の人口照明を排した「どうかしてる」映像は、産業革命前の欧州そのもの。本物観たことないけど、そう思わせる説得力。

なぜここまで美しさに拘ったか。
それはその中で生きる人間たちの醜悪さを際立たせるためだろう。バリーが爵位を得るために名画を購入する(=利用する)シーンがあるが、結局、どんなに芸術を愛でようと金と名誉に支配される。それが人間だと。

いかにも「古い欧州顔」の俳優を揃えた中に、あえてアメリカ人顔のライオン・オニールを放り込む。そんな「異物」バリーの冒険譚のようであるが、キューブリックはバリーを1ミリも成長させず、年金だけを与えて終わる。

本作唯一の欠点をあげると、序盤のバリーがとても10代の若者には見えないことだ。大柄で30代のハンサム男が、青臭い童貞を演じるのは無理があったかも。少年が現実の壁に直面し大人の論理に振り回される、という説得力をやや削いでいるのは否めない。

第二部で義理の息子ブリンドンがバリーに見せる敵意は、若き日のバリーが大人(=金本位の社会システム)に感じた失望と全く同じ。同じ旋律を繰り返すテーマ曲(ヘンデルの『サラバンド』)のように歴史は繰り返されるのだ。

ラストの決闘で、バリーが撃たなかった理由が何通りにも想像できるのが面白い。冒頭の決闘で、躊躇せず相手を撃ったことで始まったバリーの放浪。その放浪を終わらせるべく、今度は「撃たない」選択をした大人の打算。「成長」と呼ぶにはあまりに寂しい冒険の終焉だ。

冷徹な人間観察で有名なキューブリックだが「超現実要素」がない本作でこそ、その真骨頂が伺えるのではないか。まるで人間がなにか他の生物を観察するような客観視点。彼が「神」と呼ばれる理由がここにある。