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淵に立つのryoのネタバレレビュー・内容・結末

淵に立つ(2016年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

『罪』は人の数だけあって「当事者」の価値観によってその重さは変わり、『罰』はそれに対して『適当』に人が感情で決めてしまうもの。だけど人はその罰を罪と同等のものだと信じようとする…という物語であるように感じた。
ドストエフスキーの有名なあの小説でも罪と罰は同列のものではない、というようなことを何度も主人公は語りそのために葛藤するが、本作の妻も(ドストエフスキーと同じく)序盤はクリスチャンという設定。「人間は生まれながらにして罪人」という感覚は、やや潔癖であった妻にとって心地が良かったのだろうと思う。
しかし、本当に罪を背負ってからは物語から宗教の影は消える。
浅野忠信は『罪の亡霊』のように望洋と登場して去っていく。そして娘が『罰の幻』になる。
罪は人の数だけある真理であるように感じる。極端な話、カミュの『異邦人』のように自分の罪を実感しない人間がいたら、本当に罪は存在しなくなり、他人が『何となく』与える罰だけになってしまう。理不尽に感じてもそうなる。
夫は自分の罪を軽く見積もろうとする『小さな野郎』で、妻は自分の罪を凝視してしまう繊細な人間だった。
夫婦は娘を勝手に自分たちの『処罰者』に仕立てる。
ラスト、妻は娘に「まだ罰が足りない」と言われた(言わした)のではないか。
そして夫は水中に沈む娘を見て「これじゃあまりに罰が重すぎる」と考えたのではないか。だから娘が自力で水面に泳いでいくという、自分にとって「都合の良い軽減される罰」の幻を見る。もちろんただの幻。
罪を背負った二人は助かるが、罪のない若者二人の生死は不明。
あのラストシーンは二人を助けたいという倫理が描かれているのではなく、罪を全て他人に押し付けて生きてきた男が「これ以上罪を背負うわけにはいかない」という必死の利己的な行動のように思えた。ユニークで衝撃的なラストシーン。
面白く観た。
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