純

君の名前で僕を呼んでの純のレビュー・感想・評価

君の名前で僕を呼んで(2017年製作の映画)
5.0
永遠に泳ぎ続けていたい夏だった。誰にも内緒の深さまで潜って、ふたりだけが浴びる光と感じる温度を、いつまでもどこまでも分け合っていられたらいい。これから訪れる全ての夏が最低なのはきみのせいだ。きみがいたというだけで、眩しく、愛おしく、強く確かに抱きしめていたい、たったひとつの季節。1983年の北イタリアで永遠に守り通したい、あの新緑の中のきみ。

幼い緑はなんて瑞々しくて露わなんだろう。未完成だからこそ纏える、他の何も敵うことのない美しさ。物憂げな表情に揺れる日差しと寄り添う影が、エリオの初々しさを更に引き立てる。知的でクールに見える彼が、本当はどうしようもなくオリヴァーに心を焦がしていること。その思いを表に出すことの怖さとひとり闘っていたこと。ありきたりな愛の言葉では大事な感情が零れ落ちてしまうほどに膨らんだ相手への憧憬が、瞬きをするのも惜しいくらい鮮やかだった。

どきどきするってこういうことだった。遠くにいても気配を感じていたくて、視界の隅で必死にその姿を追って。彼の口癖を待ち望む自分がいたり、1秒にも満たない触れ合いに心臓が止まってしまいそうになったりしていいんだよね。どんなに賢く大人びて見えてもエリオはまだ17歳で、美しい曖昧さを持った、私たちと同じ子どもだった。彼の伏した瞳と首筋は、私たちにあの頃の息遣いを呼び戻させる。まだ熟れていない、青い果実のような端正な未来。誰よりも繊細で脆いのに、時に見せる大胆さが愛おしくて、思わず引き寄せたくなった。エリオが涙を流したら、自分の胸で泣き止ませてあげたくなってしまう。賢くなくていいんだよ、良い子じゃなくていいんだよって、身体も心もほぐしてあげられたら。怖がらせてごめん、意地悪してごめんねって、優しく撫でたくなる儚さが本当に苦しかった。

そんなあまりに幼くて未熟なエリオを、摘み取ってはいけない果実を捥ぎ取って駄目にしてしまいそうだったから、オリヴァーは距離を縮められなかったのかな。触れたら心地良く弾むだろう肌が、自分が触れることで途端に汚れてしまう気がしたのかもしれないね。過剰で少しうるさく感じるくらいの音楽が、エリオの不安定さと捕らえられない若さを表していて、それはオリヴァーには奏でられない戦慄だった。曖昧さが怖かったんだろう。何かを失うことも、戻れない場所まで走りきってしまうことにも、いざとなったら何の躊躇もせずに飛び込める若さが、もう自分にはなかったから。

エリオが思っているほど自分は美しくないって、オリヴァーはきっとずっとそう思っていた。自信家のような態度も本当は臆病の裏返しで、エリオのように無防備になれない寂しい背中がそこにはあった。抱きしめるにもキスするにも、彼は全部エリオのサインがなくちゃ駄目だった。触れたいという自分の思いよりも、エリオが嫌がっていないか、無理をしていないかを確認して、安心してふたりだけの川に溺れたかったんだろうな。ずるいと言えばずるいよ。不安にさせたくないと言いながら、エリオが自分を本当に求めてるんだっていつでも先に示させていたんだから。でも、オリヴァーはエリオのために強くいようと必死で、誤魔化しであってもエリオに頼ってもらえる自分を守りたくて、何より自分だけが彼の秘密基地でありたかったんだよね。ふたりきりのときだけあんな繊細さを滲ませるのはやっぱりずるいのに、どうしてこんな簡単に許してしまうんだろう。

曖昧であることが何よりも官能的だった。華奢な身体の内側で疼く炎は、エリオにギリシャ彫刻の持つ色気を宿らせて、オリヴァーへの想いを抑えられなくしてしまう。探り合いだったふたりの関係も、自然と引き寄せあうお互いの熱で密接になってゆく。知ってほしいという気持ちは愛だった。もっと正確には、知りたいと思ってほしいという欲望かもしれない。私はあなただけに知ってほしい。あなたこそが知るべきひとだと思うから。でも…あなたは知りたいと思ってくれるかな。直接的な表現では掬いきれない曖昧な思いが清潔な色情を乗せて届けられていて、気持ち悪いなんて微塵も思わなかった。生々しい温度も重なりも、神聖にさえ思えるほどに純粋で綺麗だったから。

恋をするということは本当にかけがえのない経験なんだろうと思う。誰かを好きになることで感じる音、出会う匂い、見える景色があって、それは絶対にひとりじゃ辿り着けない場所であってほしい。あのふたりの恋は本当に「殆どのひとが経験できないこと」で、決してひと夏の恋なんかじゃなかった。いつか離れなければならない大切なひとに出逢う季節は、きっと誰にでも巡ってくる。さよならだけが人生ではないけれど、もう会えない別れが、一生そのひとを掴んで離さない別れが私たちを待っていることに、見せかけでも覚悟を決めていたい。何度も通ったあの小道や沢山の本を読んだ秘密の場所で1番に思い出すのは、何年経っても美しいたったひとりのきみであることを、ずっとずっと覚えていたい。

痛いほどにわかっていても、それでも諦められない何かがあっていいんだなと思った。物分かりの良さだけが正しさなんかじゃないって、幼稚な態度をずっと取り続けていたい誰かがいていいのだと思う。きみにも私にも。エリオとオリヴァーの間に横たわる、通じ合っていても結ばれない関係性の寂しさや冷たさ。それさえも砕くことのできない胸の高鳴りが1番正直な真実なことくらい、本当はわかっていたのにな。繋ぎ止めたいと思うその気持ちに恥じる必要なんて全くない。触れたい。掴みたい。閉じ込めたい。きみのいない夏なんて何の熱も帯びない冷めきった夜でしかないことを、もっと、ちゃんと、最初から言えばよかった。上手じゃなくても、100%じゃなくても、諦められないくらい好きだって、どんなに痛くても忘れないって、ぼろぼろになりながらでも伝えたいと思えた夏が、こんなに早く過ぎ去っていくなんて思わなかったから。私たちはいつだって、終わりが見えて初めて離れがたくなるんだね。

この物語には、誰もが優しいからこそ耐えられない遠さがある。少し手を伸ばせば指を重ねられるほど近くにふたりは肩を並べていたのに、皆がふたりを優しく見守っていたのに、それでもふたりは一緒になれない。息子が自分自身を握り潰してしまわないように静かに語りかける父親も、黙って迎えに来てくれる母親も、「こんな悲しそうなときにごめんなさい、でも私は怒ってないって言いたくて」と優しく握手を交わせる女友達も、皆エリオの味方をしてくれる本当に素敵なひとたちだ。でも、エリオはこんなこれ以上ないほど恵まれた環境にいるのに、大好きなたったひとりと抱擁を交わすことさえもう、永遠に叶わないんだった。周りの眼差しが温かいからこそ、現実の厳しさがエリオたちを貫通していく。それが本当に悲しくて悲しくて、何もかも終わってしまうことの切なさに胸が張り裂けそうになる。

ふたりがうつしあった、お互いの名前とそれぞれの自分。雪が降る季節に心にぽっかりと開いた大きな穴。うっとり酔いしれたあの夏は確かに現実で、夢なんかじゃなかったのに。どんなに待っても願っても、あの夏はもう戻ってこない。別々の場所で、ふたりはこれから何度も何度も夏を超えていかないといけないんだ。オリヴァーのいない夏を。エリオのいない夏を。残酷な季節がやってくるたびに、エリオは絶望の中で振り向くだろう。そう、これからエリオと呼ばれるたびに、きみと僕とで返事をする。でもあの夏のきみだけは、君の名前で僕を呼んで。
純