いわし亭Momo之助

THE BATMAN-ザ・バットマンーのいわし亭Momo之助のレビュー・感想・評価

3.0
『ジョーカー』の衝撃は、序章にすぎなかった― とは 社会現象まで巻き起こした超問題作に対して あまりにも失礼な惹句ではないか? 監督もスタッフも全然違うのに… 

鑑賞前は そう思っていたが これは別の意味で そうかもしれないなぁと感じた。近年 アメリカンコミックスのヒーローたちは 無邪気にヒーローごっこに興じているわけではなく そうとうに屈折している様が これでもかと描かれている。つまりそれは ヴィランもヒーローも紙一重のぎりぎりの均衡の上に成立しているのであって 同じカードの表と裏に過ぎない という新しい世界観で描かれていることによる。つまり この作品 『ジョーカー』と 恐ろしく手触りが似通っているのだ。
ここでは もはや バットマン というのは記号であり フォーマットでしかなく マット・リーヴス監督が描こうとしていることは 恐ろしく社会派の極めて深刻な内容である。ジョーカーにしろ ペンギンにしろ どこから見ても ヴィランとはっきり分かる連中は まぁ良い(良いのか!?)。問題は 汚職に手を染めていながら 表向きは正義の味方を装っている市長であったり警察署長であったり慈善家であったりする。知能犯というふれこみのリドラ―は もはやジム・キャリーが演じたなぞなぞで人を困らせるという(これって犯罪!?)能天気なキャラではない。今回のリドラーは ジム・キャリーのような華もなく DIYショップで買えそうな素人臭い工事用の覆面をした 殺しのテクニックも稚拙きわまりない 実に地味なヴィランである。マスクが剥がされた素顔がまた地味。何のことはない そもそも誰でもない 無名の市民なのだから… ドラマの終盤 同じような覆面をしたリドラーもどきがうじゃうじゃ出てくるが 要はアイデンティティの際立ったヴィランではなく 簡単にコピー可能なヴィランなのだ。
そして リドラーを突き動かすモチベーションこそ 悪を許さない という正義感であり テロリズムと殺人による直情的な解決方法は 実はこれまで ヒーローがヴィランに対して さほどの疑問も感じずに行ってきたそれと 全く同じである。そんなリドラーに対して 典型的なヴィランである ペンギンですら 自分を棚に上げて サイコ野郎 と最高の誉め言葉で貶めるのだから 何をかいわんやである。ペンギンにしてみれば 自分に利益をもたらす人間は全員 味方であり 彼らを惨殺するリドラーの行動原理は 全く理解できないのだろう。正義のための殺人こそ ペンギンにとっては何のメリットもないものだ。
バットマンの正体であるブルース・ウェインもめちゃくちゃ暗い(苦笑) これまでの中でも屈指のダークさである。もともと 街のチンピラに両親を殺害されるという不幸な生い立ちの彼が 明朗快活であるはずはないし ここから生成されたバットマンの行動原理が 勧善懲悪の正義の味方といった一元的な倫理観であるはずもなく もっとシンプルにダイレクトに悪事を絶対に許さない となるのは当然で バットマンとしての彼が 積極的にチンピラをボコって回る構図は 必然の結果である。だからこそ リドラーとの邂逅を経て リドラーの掲げる正義と自分の掲げる正義の違いに 大いに困惑させられたことは 想像に難くない。リドラーの逮捕後 バットマンがその扮装のまま 災害救助に当たっている絵面は シュール以外の何物でもないが 彼の中に 大きな価値観の変化があったと考えるべきなのだろう。 
そもそも 正義って何? という疑問がある。正義とは人の数だけあって 本人にとって 都合のいいものでしかない。時代劇では 印籠をかざした老人の家来が 政治犯である悪代官やその手下を 大立ち回りで大量虐殺するが ドラマを見ている視聴者は スッキリ爽やか 快哉を叫ぶのであり 手下の家族がその後どうなるのか? など知ったこっちゃないのである。その妻や子供にとっては この老人やその家来は 生涯の仇でしかないのだが 本人たちは至って能天気に あっははっ などと笑って 大変 良いことをしたと自己満足の確信をし 次の宿場を目指すのである。リドラーのやっていることも バットマンがやっていることも この老人たち一行と全く変らない。
ドラマの舞台であるゴッサムシティは 世界中のどこにでもある全ての都市(現代の東京も 大阪も 正にゴッサムシティそのままだよな) あるいは規模に関わらず集落 人の集まり グループと言ってもいいのかもしれないが が多かれ少なかれ内包している闇である。