Fitzcarraldo

光のFitzcarraldoのレビュー・感想・評価

(2016年製作の映画)
1.5
映画の日は安く映画が見れるとあって、普段あまり劇場に行かないような人らの足を運ばせる良いきっかけになっているのだが…その反面、劇場に慣れていない客の数が圧倒的に増えるので、劣悪な環境で見なくてはならなくなる。たまの日曜日にしか運転しないド下手で危険なサンデードライバーに囲まれて運転するようなものだ。

本編中に遅れて入ってくる。しかも一人や二人でなく何人も…そして誰一人として屈まない無神経さに呆れてしまう。新宿武蔵野館は天井の高さがないので直立すると映写室から出る光を遮ってしまう。なのに…なのにだ。なぜ堂々と腰も落とさずに普段通りの姿勢で入ってくるのか?ご自分の間抜けな姿がスクリーンに影となって映っていてもお構いなし。なぜ気づかないの?バカなの?

そして携帯電話問題。
さすがに音を出してるようなことはなかったが、到るところでブーブー振動音がしていた。後半途中からは近くの席で振動音が次々と連続で止まらない。グループLINEか知らんけど、ブーブー、ブーブー、ブーブー、ブーブー、止めろそれッ!!早くー!!何で?何で焦らないの?何で止めないの?その何とも思わない神経が理解できん。隣の客なら、さすがに止めろと言ってしまうが隣ではなく、その辺りというくらいしか発信源が絞れない。
「いい加減にしろ!!」と怒声を上げようか、我慢するべきか逡巡したが、振動音より何十倍もデカイ俺の怒声が更なる迷惑行為となってしまうので自粛させていただいた。サンデードライバーをケツピタで煽るようなバカげた行為はしたくないので…。
見ず知らずの人らと同じスクリーンを共有する映画館という場は、その場にいる人らで作られていく。コメディ映画であれば、その場の人らの笑いがスクリーンに反映され貢献もするだろう。

しかし、無神経の集まりに於いては貢献どころかスクリーンの足を引っ張ることしかしない。もはやオレの視線はスクリーンには向かず無神経の奴の顔が見たいと興味はソイツの顔へと移っていった。これでは映画どころではない。映画は初体験が大事であって、その初体験を邪魔するかのように無神経な母親が部屋に入ってきたらどうだろうか?歳の離れた弟や妹が無邪気に入ってきたらどうだろうか?もうセックスどころではなくなるだろう。
映画では初体験を崩されると、なかなか二度目とはならない。一度目の新鮮さというのは二度と手に入らぬのだ。
もう一度言う。
その場を多くの人と共有しているんだという意識を持ってほしい。
間違っても映写室から出る光は遮ってはならない。

そして本作は皮肉にも『光』というタイトル。次々と映画化されている何故か映画人から愛されている三浦しをんの同名小説が原作。読んだことないし、読む気にもならないのは映画化した製作側の力がないのか、映像にする上での改変が下手なのか、そもそも原作に力がないのが原因なのか、とにかくまるで興味が湧かない。

先ず導入部分のゲテモノ音楽と日本の自然の風景が全く合ってない。このセンスのなさね。なんでこれでゴーしたのか…音楽はジェフ・ミルズというテクノ界では巨匠であるらしいが、だからどうしたダセぇよ!!どっちに戦犯があるのか?予め映像を見て音楽を作ったのか、もともとある音楽に映像をあてたのか?どちらにせよ最終的なゴーを出すのは監督だろうから大森立嗣だろう。そもそも映画音楽を彼に依頼したのが間違い。本作に流れる雰囲気と終始、音楽がズレている。音楽が鳴るシーンだけ別の映画というか、分断されてしまう。

そして脚本…
原作は読んでないので分からぬが、映画的な改変はあったのだろうか?恐らく原作をそのまま書いたのではなかろうか…物語というよりも箇条書きされた文を読んでいるような気分になった。
特にアラタの娘のくだりは中途半端で、誘拐されてイタズラされたのであれば話の筋は大きくそちらへシフトチェンジされるべきであろう…それほどの大きな事が起こっているのに、父親のアラタも、母親の橋本マナミも目を向けるのは娘ではない。
中途半端に物語に組み込むのなら、娘そのものが、いないという設定でもよかった。半端に娘を登場させることによりピントがズレてしまうので、どこの何を見せたいのかボヤけてしまう。

そんなわけで最早こちらが本作に期待することは「国民の愛人」の異名をもつ橋本マナミのおっぱいだけである。
敢えての役作りなのか、完璧ボディではなく、だらしのない団地妻の形態がまたエロチックさを増してます。残念ながら乳頭は見られないですが、淫らに乱れる国民の愛人を予習しておくべきでしょう。いずれ自分の愛人になる時がくるかもしれませんので…
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