ぐるぐるシュルツ

ワイルドライフのぐるぐるシュルツのレビュー・感想・評価

ワイルドライフ(2018年製作の映画)
4.4
ここにいるのにここにいない。
ここにいないのに。いてほしいのに。

〜〜〜

ポールダノが監督した作品ということで、最初から期待大でしたが、思ったよりも更に深く深くをずしりと突いてきました。
本当に繊細で、目を逸らしたいのに目を凝らしてしまうような映画。

なによりも、度々現れる山の峰の画は凄まじいものがあります。静けさが偉大さに、そして荘厳さ、そして綺麗。そして、町とセットで写しだされる。
その「存在感」。
変わらない、変われない悠久の存在。

一方、それを見えないところで、
日々の平穏の陰で密かに、
けれども確実に、
業火で焼き尽くそうとしている、
無に還そうとしている山火事。
その「存在感」。
熱炎と黒煙が大地と空を赫黒く照らし出す。

〜〜〜

父は日々を過ごしているのに、苦しい現実と向き合いきれずに過ごしてしまう。
ここにいるのにここにいない。
妻はそれに触れることもできない。
ましてやジョーには。
そこで父は山火事を見る。
臆病すぎる、大袈裟すぎると思っていた山火事。
まさに自分の日々の裏にある見えない業火と重なっていく。
何日も何日もかけて、ようやく立ち向かう決心をする。
それは自分のため。

それが「漢」の戦いやアメリカの強さとかに見えたって、
でも、そこには勿論、家族がある。

母は、ここにいるのにいない夫を見て、
なんとか現実にしがみつき立ち向かおうとしている。慣れない服を着て、面接の前だって緊張している。(こういう隠しきれない親の弱さみたいなのは、どうしても心を引っ掻いていく)
でも、夫はそのまま現実=日々から消えてしまう。
そこから、しがみついていたはずの現実が空回っていく。
自分を見失っても懸命にもがこうとする、息子もいる、守らなくてはいけない場所もある。
だがやがてそれは裏切りや嘘の誤魔化す装置と化していく。
苦しい裏腹の自由が彼女を若き日を思い出させる。
それも自分のため。

でも、そこにはやっぱり、家族がある。

ジョーは子供だからここにいることしかできない。学校でも上手くいかない、親は二人とも「不在」。
でもここにいることしかできない。
何度も帰ってくる父の話を持ち出す、地元の大学に行きたいと思う、堅実な鉄道員になりたがる。
ここにいることを自分で選んでいると、必死に、(でも不思議と、自然に)思っている。
でも、
そのうち事態、重ねて酷くなっていく。
堪え切れない。
親の二人は感情をぶつけ合う。
でもジョーは感情を出すことができない。
堪え切れない。
そこで走り出す。
この映画も走りだす。
ここではない場所に行かなくてはいけない衝動が爆発して、でも自分からは出ていくことができなくて、ただただジョーは走っていく。

警察署に着く場面でようやく気づきました。
ジョーは逃げているんじゃない、
迎えに行っているんだと。
家族がここに帰ってこれるように、
迎えにきたんだと。
そして、家族が
「ここにいる」証の写真が撮りたいんだと。

それは、家族のために。

〜〜〜

夫婦を眺める。父を見送る。母を迎えにいく。暮れていく陽。明けない夜。
一つ一つのシーンが、私たちもそこに本当にいるかのように感じさせる長回しのショット。
今まさに過ぎていく、取りもどせない時間を眺めるだけの切なさは、きっと私たちも過去に体験したことがあるはず。
そんな丁寧な、丁寧なシーンが胸を打ちます。

ベットで横になる母と話す場面も印象的。母がずっとカメラ目線だから、私たちはなんとなく二人は対面して会話しているんだと思ってしまう。
でも場面の終わりで、そうではないと突きつける。
ここにいるのに、ここにいない。

略奪や裏切りはかなり心臓を抉ってきますが、
観て良かったです。
映画館だからこその「存在」を強く感じました。

そして「ジェイクギレンホール的な悲しさ」という新しい表現を生み出してしまうような、毎回見せてくれる名演。
骨まで沁みます。

ジョー君、ほとんど、ポールダノだよね。