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誰が為に鐘は鳴るのshibamikeのネタバレレビュー・内容・結末

誰が為に鐘は鳴る(1943年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

ロベルト「君が行く所へ、僕も行くことになるんだ」


数年前にTBSドラマの「3年B組 金八先生」にハマり、TSUTAYAでDVDを借りて1人しこしこと観ていたときがあった(断じて抜いてはいない)。
ドラマ第一期(杉田かおるが妊娠するシリーズ)の終盤の方の回にて、桜中学の各先生が受け持ちの教科を離れて、自由に授業をするという回があり、その授業の1つに自分はとても感銘を受けた。それは財津一郎扮する英語の先生が行った授業なのであるが、その授業内容がまさにこの「誰が為に鐘は鳴る」だったのである。授業では小説版(誰が"ため"に鐘は鳴る)ではなく、映画版(誰が"為"に鐘は鳴る)の方をわざわざ取りあげていた。
財津一郎が繰り広げた授業の内容はと言うと、
財津「キスをしたことのないうら若き乙女であるヒロインのマリア(バーグマン)が主人公のロベルト(クーパー)とキスをするとき"鼻が邪魔になるわ"、と言うんです。そういう純粋で素朴な視点を持った素直な人間でいてください。」かなんかそういう感じだったと思う。
いじけた見方するとアジア人は鼻低いから、そもそもそんな心配しねえよ、という気がしないでもないです。はいはい白人様、白人様。

何で自分がそんなにその財津一郎の授業のことにこだわるかというと、一般社会から見て手遅れなほど気が狂っているからではなく、財津一郎がマリアのそのシーンを1人で演じるのであるが、むちゃくちゃその演技に感動したからである。
それ以来、自分の中で「誰が為に~」の映画は非常に観たい作品として心の中に存在し続けていた。

で、今日念願叶ってようやく観たけど、例のシーンはさっぱりと言っていいほど感動しなかった。普通にサラっとした感じで財津一郎が演じたような濃厚な感じを映画からは受けなかった。
この映画を観る前に、ヘミングウェイの原作も読んだのであるが、原作の方も「鼻が邪魔になる」のくだりはサラっとしていた。原作がサラっとしていたので"映画版は脚色してんだ、きっと!"と勝手に決めつけていたのであるが、全然そんなことなかった。このシーンに限らず、映画は原作の小説に忠実に作られていたと思う。
自分は本家のシーンに感銘を受けなかったが、財津一郎のマリアの演技には感動した。これはつまり、財津一郎は自分と違ってあのサラっとしたシーンに感銘を受けたはずなのである。役者を仕事にしている人に対して、一般人の自分との間に決定的な感受性の隔絶を感じた(当然だよ!バカ!)。

もうひとつおまけに、石野真子のデビュー曲「狼なんか怖くない」の歌詞の一節でも「鼻が邪魔だと~♪誰かが言ってたわ~♪古い映画の~♪セリフだったかしら~♪」
とあり、モロに本作を引用している。
この歌の作詞は阿久悠である。阿久悠もやはりこの映画の「鼻が邪魔だ」には感銘を受けていたのかも知れない。
クリエイター達の感受性に対して、隔絶を感じるぜ。


前述したようにこの映画、原作に忠実に作られていたと思う。が、映画としての面白さは期待ほどではなかった。ヒロインのイングリッド・バーグマンと主役の腹痛…便秘…あ、下ー痢ー・クーパーという往年の名優が出ているガーエーということで期待値をウルトラハイパー高めに設定していたが、期待を越えては来なかった。

とは言え、原作の面白さがあるので、やはり回想シーンのリンチ場面とか橋爆破とかラストのロベルトとマリアの別れなんかは見応えあった。
死を覚悟したロベルトがマリアに向かって「僕が死んでも、僕は君の中に生き続ける。(君が生き延びれば)君が行くところへ、僕も行くことになるんだ。」
の台詞には顔面が涙でバシャバシャになり、窒息寸前に。咄嗟の機転でエラ呼吸に切り替えた為、難を逃れた。

「誰が為に鐘は鳴る」。イギリスのジョン・ダンという詩人さんが作った詩の一節とのこと。その詩の概要は、「人間はみんな繋がっていて1つなんだから、誰かが死んでも自分とは無関係ということはあり得ない。死者に対して鳴らすあの鐘の音(弔鐘)は結局あなた自身の為に鳴っているんですよ。」みたいな感じということで、とても心温まる優しい詩だと思った。映画で共和派とファシスト達は血を流して争い合っていたが、そんな彼らもまた、大きく俯瞰すると1つなのである。

最後に、今日初めて三鷹の文化センターみたいな所で映画を観たが、スタッフの方達がとても一生懸命丁寧に仕事されていて、非常に気持ち良く観賞できた。支配人っぽいおじさまは映画のこと大好きなんだろうなぁと思わせ、とても素敵であった。
もっと上映回数が増えることをネットの隅から祈る。


顔はやめな!Bodyにしな!
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