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寝ても覚めてものKuutaのレビュー・感想・評価

寝ても覚めても(2018年製作の映画)
4.5
一般人がスマホで動画や写真を撮り、それを共有するのが当たり前になって久しいが、改めてカメラって不思議な道具だ。

カメラは「川のように」流れ続ける現実を、空間的に固定し、虚構として封じ込める力を持っている。

この映画はその作用を存分に生かしている。日常の中に擬似的なフレームが大量に配置され、登場人物はその中で右往左往している。

震災を経て現実が壊れ、虚実が混在する寝ても覚めてもな日本で、時に虚構や、なあなあな心地よさに酔いながらも、現実を探そうとする。そんな人を描いた濱口竜介の商業デビュー作。傑作。

あらすじはシンプル。麦(東出昌大)と恋に落ちる朝子(唐田えりか)だが、程なくして麦は失踪する。数年後、麦と瓜二つの亮介と出逢った朝子は、麦の存在を隠して交際を始める。だが結婚間際になって、麦が姿を現す。

写真が好きな朝子は麦という幻想への憧れが捨てられないまま、亮介にも惹かれていく。前半の集団会話劇は、それ自体はスリリングであるが、あくまでカメラは引きで固定された虚構。クローズアップも切り返しもない舞台劇に過ぎない。朝子が麦の存在を隠しているからだ。開始から1時間ほど、朝子の本心は全く掴めない。

だが、現実を突き破る女3人の本音トークや、麦が夕食に乱入した時の麦と朝子と亮介の間では、切り返しが重ねられる。バドミントンやボールを投げ返すコミュニケーションも描かれ、それがクライマックスの投げる動作に繋がる。

乱入直前、朝子の背景に真っ黒な影となった麦が立っている。白い服を着て、黒い車で幻想へ誘う麦は、死者にしか見えない。

麦が朝子の家を訪ね、黒い玄関のドアを開ける場面も、非日常が日常を侵食する瞬間を捉えた恐ろしいカットだ。深田晃司の「淵に立つ」で浅野忠信が現れるシーンを連想した。

また、何より戦慄したのは、劇中で一度だけ挿入される朝子の主観ショット。外から見る分には落ち着いた様子だったのに、「これが彼女視点なのか…」と言葉を失った。

写真のような平べったい画面で、嘘と共に関係を深める朝子と亮介。前半の彼らは画面の前後が使えず、不自由なアクションを続けている。朝子は車を持たず、自分では世界を切り開けない。

麦と一瞬の逃避行に走る朝子。かつて一緒に見た海(幻想)を、現実の防波堤が遮っている。朝子は防波堤を画面奥に向かって進み、麦の消えた非日常に別れを告げる。この時、背景には夕食での真っ黒な麦との対比として、震災後も折れずに立っている現実の木が配置される。

彼女は防波堤を画面右へ自分の足で歩き出す。そして、そのままフレームを突き破る。現実への第一歩だ。奥行きを使えるようになっていく朝子は「現実」としての大阪へ帰る。光と闇が入り混じる道中の夜行バスも最高。

仙台で見せた奥行きのアクションが、震災同様に破壊された亮介との現実を修復していく。画面内を自由に動ける飼い猫がそのキーに。奥へ奥へ逃げる亮介を追う朝子を捉えたロングショットが美しい。

他者を介した白いシーツが、序盤の朝子と麦を繋いだ。だがクライマックスで、亮平は白いタオルを「画面奥に直接」投げ、朝子が受け取る。このシーンでお話としては十分にオチている。「こわれゆく女」のラストを思い出す。

ラストシーン。一度アパートの窓枠に収まった2人は本心をぶつける事で枠から出る。(麦の登場=震災に)破壊された現実を噛みしめながら、並んで目の前のカメラと対峙する。「見上げるー見下ろす」動作を繰り返していた2人は対等な関係となる。「汚い」「きれい」と評価は全く噛み合わないが、2人の前には川が流れ続ける。全てが崩れ去った後、それでも共に生きようとする、仮設住宅の人々の姿が重なる。

その他、小ネタいろいろ。
震災後の帰宅難民=流れ続ける川。お茶や酒を注ぐ行為や、雨が人を繋げる。朝子の告白を聞く亮介は、流れっぱなしの水道を止める。この時は彼が皿を洗っており、手に石鹸を付けているが、本来罪を洗い流すべきは朝子?

虚実の媒介者としてのスマホを投げ捨てる麦。前後左右に自由に踊り、麦と朝子を上から見守っていた岡崎は、ALSで画面内を動けなくなる。

震災によって、舞台公演は中止になり、虚構と現実が一体化する。舞台道具のシャンデリアと同じように、朝子の家の皿が割れる。
名前=固有性の獲得の物語。最初は「コーヒー屋の店員」だった朝子が、名前を持った現実の人間として対峙できるようになるまでの道のり。91点。
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