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地の群れのKuutaのレビュー・感想・評価

地の群れ(1970年製作の映画)
4.1
熊井啓のシャープな映像。前進座や劇団民芸の役者が多く出ている。

オッペンハイマーのさまざまな感想や批評を見ていて、「日本人として」という言葉を連発するのもどうなんだろうな、と考えている。被爆2世、3世の方ならまだしも、被爆しなかった日本人が被爆者をどう扱ってきたのか、あまりざっくりした主語で原爆を語ると、特定の歴史を捻じ曲げてしまう気がしている。そんなことを思いつつ地の群れを見た。

戦後の長崎・佐世保。被爆者の集落と被差別部落という2つの「群れ」の衝突を描く。クライマックス、両者の間である殺人が起きるが、あの大量の石を投げ付けているのは誰なのか、1人を除いて明示されないのが今作のミソだろう。主人公は行き場のない憤りを石に乗せて、米軍と日本を隔てる川へ投げ込む。投石=原爆投下とキリスト教モチーフが随所に効いている。

米軍基地や軍艦、飛行機を撮影し、長崎の隅に追いやられた被爆者と被差別部落を描く。そもそも何故こんな状況になったのか。原爆があり、戦争があり、朝鮮の植民地化がある。「支配する側」を後景とすることで浮き上がらせている。両者を見つめる主人公は元共産党員の医者で、この事件に対してほとんど何の力も発揮できない。左翼の無力感も印象的(とは言え共産党の山村工作のくだりは不要では?)。

日本のいやーな部分を凝縮して見せつけるタイプの作品ではあるが、情報を羅列するだけでなく、被爆者の実際の写真やイメージショットを挟む編集が秀逸だ。まさにオッペンハイマーのように、過去のシーンや回想が唐突に挟まれることで、被害者の持つ加害性や多層的な語り、白黒割り切れない状況が演出されている。主人公は「そうは言ってないだろ」と語りの修正を繰り返す。フォークナーに影響されたという、井上光晴の原作の文体を丁寧に映像化している。

少女が強姦される場面で、空から迫る米軍機→画面いっぱいに横切る列車の車輪→徐々に止まっていく自転車の車輪、とサラリと繋ぐ。部落に入っていく主観ショットや、病院の廊下をトラックバックで撮り、主人公の姿がぼんやり霞んでいく場面も面白い。

作品のキーとなるのが「母親」だ。マリア像が落下して粉々になる、長崎の原爆投下のイメージが全体を貫いている。母を失った原爆孤児は浦上天主堂からマリア像を盗んで添い寝するが、顔が崩壊していく悪夢を見る。被爆者である主人公はある女性を妊娠させた暗い過去があり、今の妻が出産して母となる事にも後ろ向きな感情を持っている。被差別部落の母親は今作の中心人物だし、映画は母親たちの表情で締められる。居場所のない原爆孤児は、新興住宅団地という「新たな群れ」を彷徨う。彼を受け入れる母親はどこにもいない。

(「母ちゃんはみんなから殺されたんだ。おじさんたちが母ちゃんをあそこにやったとよ」の台詞、私は「仁義なき戦い 広島死闘編」の梶芽衣子のキャラクターを強烈に連想した)

差別される側に主眼を置く今作だが、サイドストーリーとして、自分は当時疎開しており、長崎で被爆はしていないと主張する「一般的な母親」が出てくる。彼女は娘が病に倒れ、原爆症が疑われるものの、差別を恐れて受け入れようとしない。カメラに近づきながら、彼女の顔からピントが外れていく演出がむちゃくちゃ怖い。この場面も母親の顔面の崩壊=アイデンティティの喪失の描写と言える。ベッドに横たわる娘を画面手前に、顔を洗い続ける場面の悲壮感。日本社会という「群れ」から外れる恐怖は目に見えない。有形無形の被爆の恐怖を見事に描いている。
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