ブタブタ

カメラを止めるな!のブタブタのネタバレレビュー・内容・結末

カメラを止めるな!(2017年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

もしですけどこれが始めに1時間半『悪魔のいけにえ』『リング』に匹敵する位のホラー映画が上映されて、その後に後半のあのくだりが展開する三時間超の作品『カメラを止めるな!完全版』なんて映画が存在したら。

見たことないゾンビ映画、ネタバレ厳禁や映画愛と言った文脈ではもう語り尽くされてると思うのですが自分が見てる間中思ったのは『カメラを止めるな!』は非常にメタフィクショナルな入れ子構造の作品で、ゾンビ・コメディ・映画作りの情熱と映画と言う娯楽であり総合芸術に命を掛ける人々の熱いドラマに感動しつつ爆笑したのは勿論なのですが、それ以上にこのやり方なら竹本健治『匣の中の失楽』を完全映像化出来るのでは?と言う事でした。

内容にほぼ関係ない話しで申し訳ないのですが続けます。

『あやつり糸の世界』鈴木光司の小説『リング』『らせん』など、これらは「多層世界SF」なのですが『カメラを止めるな!』も一種の多層世界の構造を持っていて、それはSF的な設定・世界ではなくあくまでも現実の映画製作の形を取っていて、CGやVFXなど使わずともカメラが回っていてスタッフとキャストによって非日常の世界が脚本に沿って再現され「そこにそれはある・何かが起きている」と言われれば「そういう事」になる。

タルコフスキー『ストーカー』では実際にはほぼ何も起きてないにも関わらず、廃墟や滝やトンネルを使った「ごっこ遊び」によって哲学的SF映画の大傑作が撮られてしまいましたが『ストーカー』に於ける「ゾーン」と「外の世界」が『カメラを止めるな!』では「映画『one cut of the dead』」と「現実世界」になっていて浄水場跡地の廃墟を舞台に役者の芝居と「設定」によって、映画の撮影と言う目の前で行われている現実にも関わらず、それが完成した映画とその撮影過程と言うメタ的視点が入る事によってリアルタイムのゲームの様な一種の「仮想現実」を作り上げている。

↑何だかよく解らない事言ってますが(笑)

これと似た構造の映画を思い出しました。
一本の映画でなく二本同時上映された
『リング』と『らせん』です。
原作小説の『リング』『らせん』もメタフィクショナルの構造を持った作品で、『リング』の世界は(小説の中で)現実でもあるけどやがて主人公の記録から小説そして映画化とどんどんフィクションになっていって、それを補完する形で続編の『らせん』がある。
やがて『らせん』の(小説の中の)現実世界に『リング』のフィクションが侵食を始めると言う展開なのですが、これは映画版では全く描かれていません。
『リング』(問題編)に対して『らせん』(解答編)でありホラー映画に答えを出してしまっても恐怖を薄めるだけで何の意味もなく『らせん』を映画館で見た時はガッカリしたのですが、これを『リング』(問題編)に対して『らせん』(解答編)が同じホラー映画ではなくコメディ映画にしたものが『カメラを止めるな!』なのではないでしょうか。

通常の映画ならカットをかけて一旦停止したり撮り直す事が可能ですが
「ワンカット生放送のゾンビ映画」と言う無茶な「ルール」によって現実世界が仮想現実である『one cut of the dead』の「時間の流れ」を止めることが出来ない(←ここ重要(^^))
言わば『one cut of the dead』は平行世界であり、それを撮っている現実世界は「上位次元」にあたる。
日暮監督(濱津隆之)は登場人物達の「生死」をも自由に出来るし一本しかない筈の斧を二本に増やしたり「現実(映画の中の)を改変する事が出来る」
時間と言う「縦方向」に関与する事は出来ないが平行世界の移動と言う「横方向」の関与は出来る。
監督でありもうひとつの世界でも監督の日暮は平行世界を移動しつつ現実ともう一つの映画の中の現実、両方の「神」とも言える存在と化し、更にそこに日暮の娘(真魚)が加わり脚本をその場で書き換えたり「時間への関与」迄始まる。

PKディックの『去年を待ちながら』での平行世界への移動と時を超えるドラッグによる歴史操作、それに近い事をやってる。

夢野久作『ドグラ・マグラ』綾辻行人『十角館の殺人』前記の『匣の中の失楽』等々、多層構造を持ったお話は主に叙述トリックを使う探偵・ミステリー小説の世界では多用されてきましたが「ゾンビ」「コメディ」でここまで見事にやったのは『カメラを止めるな!』が初めてではないでしょうか。

もう連日どこも満席で、本当は単館系ミニシアターで見たい作品ですけど無理ですね。
是非とも1度はシネマスコーレで見たいのでロングラン上映なのでそのうちシネマスコーレでもう一度見たいです。
ブタブタ

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