上質な、知覚と感性の映画です。
ストーリーにおいても画においてもメッセージにおいても余計な添加物がまるで含まれていない洗練された79分間です。
「トトザヒーロー」ラストで主人公の概念というか魂みたいなもの目線になるカメラがすごく好きで楽しみにしてた、あの感じ。
そう、この映画カメラがすごくて、透明人間が送る視線を、盲目のマドレーヌが受け取り、やわらかいとか暖かいとか表現するの。
カメラは透明人間の目線となって常にマドレーヌを見つめていて、見つめ返すマドレーヌの目線はまっすぐ観客私たちに注がれ続けるの。
珍しく、本国版のポスタービジュアルより、日本版の方がグッとくるし素敵だな、と思っていたら、見終えた後だと、なるほど、本国版の印象の方が近い。
可愛い少女時代はあっという間に終わり、レディになってしまい、寂しい。
透明人間っていったら他者との関わりの中でどたばた災難やコメディがあるかと思うじゃないですか、そういうやり尽くされたことは一切出てこないです。
街にすら出て行かない。彼らの社会と呼べるようなものは、亡くなる前の家族と、少しの間暮らした病院だけ。
周りから見たらマドレーヌが一人で喋ってるとか、服はどうするとかそういう野暮なツッコミは、他者が存在しない二人きりの森だから成立する。
そういう意味ではこの二人の世界を映画にして私たちに公開したこと自体が罪で、野暮なくだらない現実的ツッコミレビューを受けることもなかったのに。
閑静な山と湖のほとりの、鳥のさえずりや衣擦れの音、雨上がりの匂いなんかをクリアに感じる世界で研ぎ澄まされた感覚で、相手の姿を確認する。
自然豊かなそんな舞台は彼らの澄みわたる精神を反映してると思う。
外から丸見えのガラス張りの美しいお屋敷は、盲目のマドレーヌの比喩かもしれない。
画面にずっと一人で映るマドレーヌの演技がすごくて、いわばパントマイムなんだけど、確実に透明人間が存在してる。見えない透明人間が私たちにも感じられるようになる。存在してないということを忘れさせる!一人芝居なのに。
「街の灯」という言葉をちらほら見かけけど、見えてる・見えてない状態が演技で表し分けられているってことくらいかな、同じ感動があったのは。
のび太的なスケベ心はほんのちょっとだけあった。でもそんなの感受性の高いマドレーヌにはすぐにお見通し。カメラを通してスクリーンのこちら側の観客私たちを睨みつけてくるのでやましい気持ちに(笑)
「暗いところで待ち合わせ」を思い出した。
後半の上品な官能ムードをこんな例えをしては失礼すぎるけど、エロ同人誌なんかで醜い男の姿は透けて女の子だけが描かれることがあるよね。マドレーヌの悶える姿だけを(本当どうやって撮影してるんだろ?)堪能することができます。
面白さをちゃんと書きたいけど教養がないのでうまくまとめることができない。
赤ちゃんはとりあえず「見える」らしい。隔世遺伝だとすると自由自在イリュージョン型?
見えない切なさもどかしさを存分に描いた後でマジシャンという職業に戻り「魔法」として表現し仕上げるのは素敵で楽しげな後味だった。
初日初回で観たら客まばらでフィルマでも評価いまいちで悲しい。
邦題は「見えない恋人」だけでもダブルミーニングでキャッチーだし良かったのでは?