松井の天井直撃ホームラン

嵐電の松井の天井直撃ホームランのレビュー・感想・評価

嵐電(2019年製作の映画)
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☆☆☆★★

↓のレビューは、以前のアカウントにて鑑賞直後に投稿したレビューになります。


変わらないモノ 変わり行くモノ

スクリーンを眺めながら。嗚呼!これはきっと、俳優の彼と嘉子(過去に掛けている名前なのだろうか?)は、若き日の井浦新と奥さん(どうやら腰の悪い地元出身)の出会いの日々をシンクロさせているのだろう?…と思いながら見つめていた。

だが…。

* 1 映画の終盤で、助監らしき女の子の「映画に出て下さい」の一言で、ちょっとまてよ!…となった。
「あれ?ちょっと思っていたのと違って来てる」

大体、最後の方の上映会で。若い頃の嘉子が映っているのだけど。元々それはマスター曰く、嘉子のお父さんが撮った映像の筈。
でも映画の中で、それを8ミリで撮っているのは地元の嵐電マニアの男の子なのだ!
その男の子の役名が 《子午線》
ちょっとまて!《子午線》って…。

どうしても舞台の「子午線の祀り」を思い出す。
舞台自体は観た事は無いので、此処で少しググってみる。
子午線とは天文学用語だが、子午線の祀りは源氏と平家の源平合戦の果ての悲劇。何故だかキーワードとして【宇宙的】と出て来る。
そう言えば、青森弁の女の子の役名は《北門南天》
う〜ん(´-`)ありえね〜名前だ〜。
あ?井浦新は鎌倉から来たって設定だし、役名も《平岡衛星》って。平家の一文字が入っているし…偶然とは思えないぞ(・・?)
そんなこんなと映画全体で、過去や現在であったり。亡霊や妖怪。宇宙的な思いに人間の記憶と妄想等。実態の朧げなモノに対し、監督が持っているであろう拘りの様な感覚をほんの少しだけ感じる。

…と書いたところで、どうにもこうにも今一つ伝わらないだろうし。現に書いている自分自身ですら、何を書いているのすら怪しい。
どうにも、映画全編で内包されているモノの確かな事実が、完全に理解出来ないもどかしさは強い。
とは言っても。観た事で、時間やお金を損した…等とは全く思わない。寧ろ、1度観ただけでは理解しきれなかった映画などは、過去にも沢山有ったし。寧ろ名作と言われる作品程、公開直後はボロクソに言われる作品は多い。
(別にこの作品が名作とも思いきれないのだが)

この作品を読み解く鍵として、やはり鈴木監督の過去に撮った作品を参考としない訳にはいかないのだと思う。
この作品の序盤にこんな場面が有った。

井浦新が電話をしているのだが。カメラはその彼の左側にゆっくりとパンをすると、そこには電話相手の妻が寝ている。
鈴木監督作品としては。以前に、『私は猫ストーカー』と『ゲゲゲの女房』の2本した観ていないので、確かな事は言えないのですが。確か『私は…』の中で、やはり電話を使い。似た様な場面が有った記憶があるし。『ゲゲゲ…』の設定は古い時代の筈なのに。出演者が、現代の東京を舞台に演じていたり。この『嵐電』では、どうやら修学旅行生は。過去から現代の京都に来ている様だし…と。そんな辺りにも拘りみたいのを感じない訳には行かず。分からない割には見逃せない場面は多かった。
そんな中の一つが、狐と狸の場面で。今一つ分からないところではあるものの。『ゲゲゲ…』の時の2階に住み憑いた疫病神の記憶から、この監督らしさを感じるし。若い2人が台詞合わせをしながら、古い京都の街並みを歩く場面は。『私は…』で、猫を探して歩く姿が。人気の散歩スポット谷根千を探索するのとリンクし、面白く観ていた。
そんな中で、この監督の前前作『ジョッキング渡り鳥』を観逃しているのがちょっと痛い。
伝わって来ているイメージ等からみて、1番関連が近いのでは?と思えるのだけれど…。

いずれにせよ。一見すると、ノスタルジーを感じさせ、取っ付きやすそうに見せつつも。観客に対し、絶えず挑発を誘う。挑戦的な作品の様に見受けられる。

2019年5月29日 テアトル新宿

⁂ 1 公式を見ると、この映画の製作の発端となったのが。プロデューサーが過去に「映画に出てみませんか!」と言われ、何本かの映画に出演した経験があるのだとか。