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魂のゆくえのGreenTのレビュー・感想・評価

魂のゆくえ(2017年製作の映画)
5.0
ラストがすごい衝撃で、それまでの話が全部吹っ飛んでしまったくらいなのですが、そのおかげで私は、初めてキリスト教の「受難」の概念が理解できました。

イーサン・ホークが熱く演じるアーネスト・トラー牧師は、とても信心深い善人なんですね。けれども、そのせいで息子は亡くすは、妻には去られるは、とても孤独な生活を送っていて、自分の信仰に対する疑問が湧いて来る。

自分の心中を包み隠さずペンにぶつけようと、日記をつけ始めるのですが、書けば書くほど絶望感が深まり、お酒を飲んで紛らわすしかない。

その上、深酒がたたり、血尿が出たり、夜中1人で吐いたり、体の調子も悪い。

聖書の『ヨブ記』を連想させられました。

ある日、妊娠した若い信者であるメアリーが、環境破壊問題を憂い過ぎて鬱状態になっている、夫のマイケルと話をしてくれないかとトラー牧師に頼みます。

マイケルはトラー牧師に、「環境破壊はすごいスピードで進んでいて、2050年には全てが崩壊する。こんな社会に子供を送り出せない」と、妊娠しているメアリーに中絶してもらいたいと言う。

トラー牧師は、問題は子供でも環境破壊でもなく、マイケルの心の中に希望がないことだと言う。「希望と絶望はコインの裏表。両方あるのが人生だ」と。そして、「神の御心はわからない。でも私たちは、正しい道を自分で選ぶことができる」と言う。

次の日、メアリーは、マイケルが「自爆ベスト」をガレージに隠していたのを見つけ、トラー牧師に相談する。トラー牧師は、それを預かることになるが、その後マイケルは、ショットガンで頭をぶち抜いて、自殺してしまう。

メアリーはまさに『聖母マリア』で、マイケルは、メアリーを妊娠させたのですから「神」のはずなんですけど、環境破壊問題と自爆ベストをトラー牧師に突きつけてから、ショットガンで頭を撃ち抜いて自殺してしまう。

つまり、神はトラー牧師に受難を与えて、死んでしまう。

「神は死んだ」つまり「絶望」ですよね。

こうして書いてみると、良くある信仰に対する疑問、「神は本当にいるのか」という問いの映画なのですが、そこに環境問題という現代的なトピックを持ってきたところが新鮮でした。

環境問題って良くわからないじゃないですか。利権問題が絡んでいるので、誰の言っていることが正しいのかもわからないし、マイケルのような、「エコテロリスト」たちも、環境問題を本当に憂いて極端に走るのか、それとも環境問題に乗じて破壊行為を正当化したいのか?

トラー牧師は、有害物質を垂れ流しているバルク社が、自分の教会を所有するメガ・チャーチに多額の寄付をしていることを知るのですが、このメガ・チャーチの司祭は、神の教えを広めるためにはしょうがないよと欺瞞を受け入れて生きる人、バルク社のCEOは、有害物質を垂れ流しておきながら、自分の食べるものはオーガニックやローカルにこだわり、またリサイクル可能な製品を作っていることをアピールしたりする、自分の行為を正当化して生きる人を良く描いています。

現世というのは矛盾にあふれていて、善人であろうとすると幸せになれない。マイケルのように絶望するか、トラー牧師のように「何もしない自分も悪行の一部なのだ」と罪悪感を感じながら生きるしかない。

映画の中で、トラー牧師が唯一幸福を感じていたのが、メアリーとサイクリングするシーンでした。「シンプルなエクササイズの喜びは、God givenだ」と。近年、エクササイズが流行っているのは、幸せにはなれないことに薄々感づいてきた人間たちが、少なくとも現実から目をそむけて幸せを「感じる」ためかなと思った。

マイケルの死後、トラー牧師は身重のメアリーを何かと面倒見ているのですが、ある夜、メアリーは1人でいるのが怖くてトラー牧師のところに来る。そして、昔マイケルとやっていた「Magical Mystery Tour」という遊びを一緒にやってほしいという。

それは、床に仰向けになったトラーの上に、メアリーがうつ伏せに体を重ねて、目を見つめ合いながら呼吸を合わせていくという遊び。

ここで、2人の体が空中に浮き、2人は体を合わせたまま緑の山や、真っ白な雪山の上を飛んで行く。

だけど、景色はだんだんとゴミだらけの街や汚染された海に変わっていく。

人間って、穏やかな気持ちになった時に、緑の木々や青い海を想像するじゃないですか。そういう体験をしている時に、トラー牧師は、汚いゴミ山や汚染された海を見るようになる。

多分、この体験が、トラー牧師を究極の行動に走らせたんだと思う。「何かしなければ、自分は穏やかな気持ちになれない」と。

そしてトラー牧師は、マイケルが残した「自爆ベスト」、つまり爆弾がついたベストを着て、バルク社のCEOが来る教会の250年式典に出る決心をする。

ここで衝撃のラストになります。この映画を観てみようかなと思った人は、この先を読まずに、映画を鑑賞してください。

トラー牧師は、メアリーが式典に来ることを知って計画が実行できなくなる(メアリーを殺したくないから)。その時の彼の動揺ぶりがすごくて、声を殺して叫んだりする。

私はこの動揺ぶりは、信仰のために死ぬことさえ許されない、究極の受難を与えられたからかなと思いました。

トラー牧師は、庭で小さなうさぎが引っかかって死んでいた有刺鉄線を取り出し、身体中に巻きつける。そして、いつもウィスキーを飲んでいたグラスに、排水口の汚れを溶かす薬品を注いで飲もうとする。

そこにメアリーが現れて、「アーネスト・・・」と名前を呼ぶと、トラー牧師はグラスを捨てて、メアリーを抱きしめ、2人は情熱的にキスをする。

ポール・シュレイダー監督のインタビューで「これは(色々な解釈ができるように)あえて曖昧に作ってある」と言っていましたが、私は以下のように解釈しました。

トラー牧師は、薬品を飲んで死んでしまうのだけど、死に際に見た幻覚が、メアリーとキスしているところだったと。

メアリーが、いつも「トラー牧師」と呼んでいたのに、このラストシーンでは「アーネスト」とファースト・ネームで呼んでいたことと、すごく情熱的なキスを交わすシーンが長々と続いた後、突然バサッと終わるところが、トラー牧師が事切れた瞬間だったのだなと。

さらに監督は、「これは神の救済なのだ。つまり、天国はこう言うところだよ、と見せてあげたのだから」と言っていた。

なるほど、クリスチャンの人生観ってこういうものなのか、と思いました。現世では「受難」、死んだら「天国」。トラー牧師のように「信仰とは何か」「正しいことは何か」と苦しみ続ける人は天国へ行ける。

私は、キリストやヨブに「受難」を与え続けるクリスチャンの神というのは、「サディスティックだ」と思っていた。しかし今では、善人が現世を生きること自体が受難なのではないかと思う。だから、その善人に、天国というものを作ってあげる神は、優しさ、憐れみ、すなわち「愛」の象徴なのでは?

トラー牧師は、生きている内は幸せにはなれないし、「奇跡」を起こすこともできなかった。しかし、それでも神様はいるんだよ、というラストなんだと私は解釈しました。

これを「救い」と思うか「絶望」と思うかは、確かに監督が言う通り、なんとも言えませんが。
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