真田ピロシキ

飛べない鳥と優しいキツネの真田ピロシキのレビュー・感想・評価

飛べない鳥と優しいキツネ(2018年製作の映画)
3.7
福岡アジア美術館にて鑑賞。福岡アジアフィルムフェスティバル上映作品。

原作は韓国のWeb漫画『女子中学生A』。女子中学生の飛び降りを報じる新聞記事とその後に続く飛び降りシーンからかなり不穏なものを覚えた。なので全てがフラグにしか思えなく、主人公ミレが孤独に過ごしていた学校で初めて出来た友達のベッカプが同じく小説を書いているのは裏切られる前兆としか見えず、好きになった男子テヤンも絶対想いが報われそうにない。家では暴力親父、逃避先のネトゲはサービス終了予告と何も良い事がなくもしかして胸糞漫画広告みたいな内容じゃないかと危うんだ。

そんな中でミレはネトゲ仲間のヒナとリアルで会う。最初の内は被り物をして声も出さなかったヒナだが、案の定ベッカプに裏切られ盗作の濡れ衣を着せられいじめの標的になり死にたくなってたミレに対して顔を見せるヒナ。その正体はジェヒという男。ここは少しネトゲに理解があれば予想通りだと思う。自分も死のうと思ってるから死ぬ前にやり残した事をやろうと言うジェヒは助けてもらわなくても良いと言ってたゲーム上のヒナが重なって見える。それで弘大に行ったり、20分で完食したらタダになる特大ピザ2人前を食べたり、ジェヒが1人では行けない歯医者に行ったり(笑)色々やる。ミレはテヤンに心を打ち明ける代役をジェヒにやってもらうのだけれど、「それは偽物じゃダメだ」と否定される。この辺りでは不穏な空気は大分薄れてもしかしたらと希望を抱けてた。

そうして意を決して再び学校に行ったミレは白い目で見られながらも小説は自分の作品だと主張して懲罰委員会まで開かれる大事になり遂にベッカプが折れる。そこから移るいじめのターゲット。主犯の女曰く「これは罰よ」。この台詞を聞いた時現在ベストセラーになっている『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』にあった「人間は人をいじめるのが好きじゃないと思う。罰するのが好きなんだ」という言葉を思い出した。思えば当初ミレが爪弾きにされてたのも酒飲みで暴力的だと知れ渡っていた親父のジャッジを娘が代わりに真っ当な家庭でいらっしゃる皆様方から受けてた節がある。そんなミレを大義名分としたいじめに対してベッカプの優しさを思い出し「間違いは誰でもするものよ」と止める勇気を踏み出したミレ。この決断がジェヒの犯した取り返しのつかない過ちと繋がっていて、この物語はこの2人でなくてはいけなかったのだと強く思わされる。そして明かされる飛び降りの真相。それまでのカラーを覆すファンタジーである。だがネトゲの友達によって魂を救われたんだ。ネトゲで命を救っても良いじゃないか。そう言ってる気がした。ネトゲの方では自キャラを死んで終わりにしているのもこの奇跡をより意味深いものにさせていた。

しかし納得いかない点は結構あって、あんないじめてた連中と仲良くするなんて無理だろう。ジェヒの事みたいに「許さないが忘れる」が現実的な落とし所だと思う。ジェヒの場合は完全に手遅れになるまで行ってしまってて、ミレはまだ誰にでもある間違いとして間に合う段階だったという事は分かるがあの女はアカンって。ランの話しかしない事なかれ主義のクソ先公も飛び降りで改心したように描かれているが人間がそんな簡単に変われはしないと思うのは捻くれすぎでしょうか。そうしたリアリティ面でやや厳しい結末を受け入れ易くするためでもあのファンタジーは必要だったのかもしれません。ミレの家庭環境が改善される兆しは描かれていないが、同様に複雑な両親を持つジェヒが未来へと足を進めたようにミレにも希望を持たせているのだろう。

本作の時代は携帯電話が見当たらずWindows98が使われていた事から察するに2000年くらい?この辺は特定の時代をボカしているのかもしれない。Windows98でゲームをするくらい貧しい家庭とも考えられるし。2000年前後だとしたらミレのような本とゲームが好きな所謂陰キャタイプには今よりずっと過ごしにくそうな時代。そうした中で本とゲームによって救われる話を描いているのは日陰者への応援歌と思える。見ていて辛い所はあるがこの映画は好きです。