Foufou

目撃者のFoufouのレビュー・感想・評価

目撃者(2017年製作の映画)
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韓国映画の大半が役者の演技で持っている、ということをなかば確信させられるような作品でした。

直線的に語られる物語は、おしなべて随所随所で選択肢A、B、C……を迫られる場面が配置され、主人公がたとえばAを選択する場合、「ああ私でもそうするな」と観客がなったり、「この主人公ならそうするんだろうな」と観客が得心したりと、これを敢えて共感と呼ぶなら、この共感軸がよりブレない作品に人はカタルシスを覚え、惜しみない賞賛を贈るものだろう。であるなら、本作に限らず、最近見てきた韓国映画の少なからずにおいて、「なんで選択肢Aなん?」となることがある、ということなのである。それを強引に突破するのが、役者たちの顔であり、演技だとは、ひとまずいえるのではないか。

本作はたしかに現代の韓国社会のある局面を痛烈に皮肉っているのだろう。そして、その矛先は日本社会にもある程度は届いている。しかし、「面倒に巻き込まれたくない」という感覚は、けして現代的なものともいえないだろうとも思うのである。だから私なんか、昔から、泥棒に家に入られたら、「泥棒だ!」とか「助けてくれ!」とはいわず、「火事だ!」といって騒げと教えられたものだった。そうすれば、近所は我先に窓から顔を覗かしてくれる、と。これをしも、処世訓というのではなかったか。

そうした古くからの俗知恵に授からない者たちの悲劇、という風情が本作にはあって、それを「現代的な問題」として引き受けていいものか、いささかの戸惑いが伴うのでありました。

だだね。ごくごく平凡な幸せをやっとの思いで手に入れた瞬間、これをなんらかの形で理不尽にも奪われることがあるのではないか、という漠然たる不安ね、これこそが小市民の共感覚なんでないかと、ふと思うのでもある。だからこそ、とりわけ経済的に急成長を成し遂げ社会の二極化の加速化する韓国において、そうした不安をベースに映画が量産され、消費されているのではないかと思ってみたり。
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