イホウジン

ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語のイホウジンのレビュー・感想・評価

4.2
幸せは 自分で見極め 掴むもの(五七五)

まず今作で目を見張るのが流れるような姉妹の会話劇である。会話と会話の間に息継ぎのようなものを一切挟まず、観客に言葉がなだれ込んでいく。そしてそこで語られることの他愛なさが観ていて楽しい。原作が名作だからといって決して力まない監督の姿勢の現れであろう。確かに今作は言葉で説明される情報の比重の大きい映画ではあるが、その会話の“テンポ”が非言語的な現場の空気をうまく表象しているように受け取れた。ここにあげた被せるような会話劇が強烈にうつる分、他の場面での独特な間や沈黙がより効果的になっている。小津映画とは真逆の“会話”の使い方だが、それが映画としてのリアリティを増幅させている(そういう意味では小津の会話劇は意図的に虚構を演出するものだったとも解釈できる)。
そして今作の主題は「“私”にとっての幸せとはなんなのか」という問いだ。重要なのは、フェミニズム的な要素はあくまで作品の基盤の一つに過ぎないということである。本の出版の駆け引きや学校などのパートで男尊女卑や社会の男性優位性が(悪く)強調されこそするが、今作の内容はそれに姉妹が立ち向かうような話ではない。というか、仮にそういう映画であったなら、主人公以外の姉妹の“ゴール”は否定されるはずだ。彼女たちは手段がどうであれ「自立」の道を放棄してしまったからだ。しかし今作では全てのゴールが結果的には肯定される。つまり、今作の真のテーマは「女性の自立」ではなく「女性の幸せ」なのだ。
「幸せ」を追求するのが今作の主題なのだとすると、物語は一気に多義的なものとなる。幸せは誰かが決めるものではないし、究極的にはアイデンティティの問いにも通じる苦しい自問自答だ。その困難に立ち向かうというのが、今作のストーリーの本流と言ってもいいだろう。しかし、それでも「自分の幸せは誰かが決めるものではない」ということだけは今作において断言される。確かに登場人物の多くは結婚したり誰かを愛することで“幸せ”を手に入れたが、それは誰かに押し付けられたものではなくあくまで主体的な選択である。主人公と長女の結婚式での会話がそれを象徴するはずだ。そしてこの解釈は主人公をも自らの束縛から自由にした。まあ踏ん切りが付いたという考え方もできるが、過去の記憶や因果を払拭したという意味で、あの“2つの”エンディングはどちらも妥当なものだっただろう。登場人物たちが皆自分なりの“幸せ”を獲得した結果が、あの凄まじい多幸感溢れるエンディングに現れている。あのエンディングは“完璧”といっても過言ではない。
登場人物のキャラクターも一人一人が個性を持っていて愛おしい。姉妹の我の強さは言わずもがな、ローリーのお坊ちゃん感溢れる幼稚さも可愛い(グレタ監督の映画でのシャラメの絶妙なクズっぷりがたまらなく好きだ)。演技もものすごく自然に感じて、笑ってる場面なんかは本心から笑っているように見えた。観ているこっちまでつられて笑いそうになってしまう。

大量の出来事が怒涛のように繰り広げられるが、突き詰めるとその“全体”を繋ぐものは弱かったように思える。人生に一貫性を求めることの方がナンセンスであることはわかるが、仮にも劇映画である以上、「下手な鉄砲数うちゃ当たる」状態の出来事の乱発は否定出来ない。余計な展開は確かに存在しなかったが、もう少し洗練されたストーリーが欲しかったとも感じる。

前作は私のお気に入りの作品であった一方、あれがあくまで自伝的な作品であり、いざ他者を撮る時にどうなるのか一抹の不安はあったが、そんなものは杞憂だった。そして同時に、彼女の監督としての凄まじいパワーを感じた。ストーリー自体のオスカー受賞もそう遠くない未来だろう。
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