DJ薄着

ジョーカーのDJ薄着のネタバレレビュー・内容・結末

ジョーカー(2019年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

途中まで、ザ・ノンフィクション見てる感じ。本当にありそうな話で、映画見てる最中は部分部分でかっこいいし気持ちいいけど、劇場出たあとはやるせなさとモヤモヤが残る。

ジョーカーは個人的な感情で人を殺しただけなのに、メディアやゴッサムシティの市民はその事件に過剰に意味を探してしまい、貧困層の代弁者のように捉えてしまう。ジョーカーはそんなこと考えていないし、本当の彼自身を誰も見ようとしていない。第三者が過剰に意味や共感を作り出してしまう光景はテレビやネットでもよく見かけることで、例えばひとつの交通事故に40万弱の署名が集まる状況も(もちろん痛ましい事件だけど)どこか歪みや怖さも感じる。その一方、共感を本能的に求めてしまってる自分もいる。これはあんまり関係ないかもしれないけど、どんなつまらない映画を見ていても、せっかくお金払ってるんだからと無理矢理にでも共感するキャラクターを探してしまうし、せっかく時間割いたんだから過剰に意味を見出そうとしてしまう。共感や解釈はエンタメ、分かるよと言うことや言語化することの気持ち良さが人を暴走させてしまう部分もある。この文章もそうかもしれない。

ジョーカーに対しては何ができたんだろう。
たしかに精神科医の先生は仕事シャンシャン過ぎかもしれないけど、処方箋を出す医師のスタンスって少なくとも日本では、対象者に思い入れしすぎず、静観しながら経過を見守るのが一般的なので、ジョーカーには医師だけじゃなくカウンセラーと対話する機会もあれば少し状況が変わっていたのかもしれない。(と思ってたけど、話してた人医師じゃなくてソーシャルワーカーでカウンセリングだったらしい)
ただインフラとして孤立した人をフォロー出来る仕組みを作っても、それが制度化されると同時に個人と個人のコミュニケーションから、個人と組織のやりとりになってしまう。今回対比的に描かれていた、共感しすぎないようビジネス的に付き合う医師と、過度に共感してそれを理由に暴れ回るゴッサムのピエロ。そのどちらでもない小人の同僚や、同じアパートに住む女性が友人として寄り添えていたら救われていたのかもしれないけど、それってトップダウンでどうにかする話でもないし結局ご近所付き合いやコミュニティ大事みたいな話になりそう。それが綺麗事ということも経験的に分かる。実際付き合いきれる限界もあるし、爆発するまで助けを求められない人もいる。
それでも何かすがる先が必要で、文化への接触がテレビや、今だとインターネットだけではなくapple musicとかも生活保護受給者への補償対象になったらいいのではとか雑に思ったりした。

ジョーカーの顔や演技、音楽や画面がすごくかっこよかったけど、もしどれかダサかったらジョーカーの見え方はどう変わってたんだろう。

上映前にITの予告も流れてたけど、いまピエロに対してネガティブなイメージ付けされすぎではと気になった。ピエロの仕事したい子供っているんだろうか。いたら話聞きたい。