イホウジン

スケート・キッチンのイホウジンのレビュー・感想・評価

スケート・キッチン(2018年製作の映画)
3.8
スケボーを通した一人称視点の青春群像劇。

この映画の中では「没頭している趣味の“没頭”とは一体何のことを指すのか?」という問いである。これに対する各登場人物の答えの違いがこの映画の最大のポイントとなる。
主人公にとってそれは「スケボーをプレイすること自体」だった。彼女は単純にスケボーをすること自体を楽しんでいたし、それには性別や過去のいざこざは関係なかった。であるが故に、ドラッグを使うことには興味が無いしクラブにいてもどこか場違いな思いをしていた。前半で男友達が多かったという趣旨のセリフがあったのも、それが後のバイト先の同僚のスケボー仲間との純粋な戯れに繋がっていく。唯一彼女に足りなかったのはNY郊外に住んでいることに起因する仲間の少なさだったのだろう。
しかしながら、スケートキッチンのメンバーの答えは「仲間と一緒にスケボーを媒体に繋がること」であった。彼女らはスケボーをプレイしていた主人公とは違い、スケボーをエンジョイしていたように思える。スケボーに対する思いれが違うのだろう。主人公が郊外住み(自由になるにはスケボーしかない)の一方でスケートキッチンはNY(スケボー以外にも自由になる手段はある)という土地の違いも絡んでいるのだろう。だからスケボー以外の遊興にも手を出してるし、主人公のNYのど真ん中でスケボーをしたいという向上心に対しての渋り(あくまで繋がりがメイン)も伺えるのだろう。故に、骨折した彼女がやけに不安がるのは、スケボーが出来ないこと自体と言うよりはそれによりスケートキッチンとの関係が疎遠になるためだったと考えられる。
だとすると、後半の展開は主人公の「妥協」のストーリーであると解釈できる。向上心より友情を優先したと考えると個人的には少しやるせないものが無いわけでは無い。まあ主人公が男友達と知り合えたきっかけも自由を手に入れたきっかけも元を辿ればスケートキッチンなので、そこら辺の恩もあったのだろう。
とは言え、テーマがスケボーということで「エモ」一辺倒な作品にできる余地がありながらも、敢えて硬派な青春活劇路線に寄せたのは見事だったと思う。当然スケボーの映像はクールだったが、何よりストーリーも作り込まれていた。

だとすると、終盤の展開があまりにテキトー過ぎる。無理にハッピーエンドに仕立てあげた感じは否定できない。家族パートも消化不良。今作ではサブ的要素に過ぎないが、それでも中途半端が過ぎた気がする。
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