イホウジン

ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへのイホウジンのレビュー・感想・評価

4.1
【コロナ前鑑賞映画】
「表現としての新技術」がもたらす、夢と現の交錯する幻想世界。

今作の魅力はなんといっても後半のワンシークエンス3Dパートである。テクノロジーが極限まで発展した現代、映画の世界でも新技術が次々と登場しその感動に浸る間もなくどんどん既存のコンテキストに溶け込まれていくが、果たしてそれは映画の登場直後から同様のものだったのだろうか?
回想するのは戦間期ぐらいのSF映画だ。映画産業の定着と共に特撮の新しい技術がみるみる発明されていったが、それらはまず圧倒的な好奇心をもってして受け入れられていたように思える。故に、ただ技術を紹介するだけにとどまらずそこから想像力をさらに膨らませた素晴らしい映画が誕生していった。今作はその頃の映画人たちの熱意を再び呼び覚まさせたような熱狂がある。それは“映画”という枠組みそれ自体を巧みに使ったものだからだ。
ここ100年、億単位のあらゆる人たちによって踏みならされてきた映画の世界、それでもまだ雑草が生い茂ってる空間に孤独に踏み込んだのが今作である。ここ10年3D映画はかなり制作されてもはや新技術とも呼べないほどに映画に飼い慣らされてるし、ワンシークエンスもあらゆる名監督によって進化し続けてきた。だが、それらを技術として取り入れていく中で表現としてそれらを使うということを忘れてしまったのではないだろうか?“表現としての3D”という視点で今作を振り返ると、それは単なる視覚効果を越えた「夢を視覚化させる装置」として機能しているのがわかる。そしてワンシークエンスは夢にはエンディングという概念が存在しないことを伝えるために機能しているのである。
今作の後半はひたすら主人公の夢を観客が追う構成だ。短期間でみるみる場所や登場人物が変わってそれらには繋がりがなくて、現実には存在しない風景を彷徨っていながらそこには懐かしさを感じる。その独特な空気は私たちが日頃見る夢そのものだろう。その夢の中の雰囲気を今作は見事に視覚化しているのである。確かに映画はドキュメンタリーを除き想像上の出来事が可視化されたものにすぎないが、それでも基本はベースに「現実」を置くものだ。しかし今作はそのベースを守りつつも(前半は現実世界のパートだ)、その下にさらに「夢」の基盤を設置している。主人公は現実世界において、今も存在する“はずの”女性を追い求めるが、その行為もまた主人公の記憶の断片を繋ぎ合わせることでしかない。この前半部分で見せた夢が現実世界に干渉する様を、後半部分で一気に前面化させたのが今作の演出の優れた点であろう。
映画は観客に明晰夢を見せるための装置であると仮定すれば、映画を越えた夢の概念に思いを馳せる今作は言ってしまえば“映画の敗北”である。本当の夢に嘘の夢が勝てるはずがない。しかし、この負けを認めた先には映画にとっての未知の地平が開けるはずだ。

観てから1ヶ月以上経っているが、後半のインパクトが強すぎて前半部分の記憶がだいぶ飛んでるのは否定しない。雨の演出の巧みさは覚えているのだが、肝心のストーリーの抽象的な感じは序盤から観せられるにはややキツかった。
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