サマセット7

ミッドサマーのサマセット7のレビュー・感想・評価

ミッドサマー(2019年製作の映画)
3.8
監督・脚本は「ヘレディタリー/継承」のアリ・アスター。
主演は「トレインミッション」「ストーリーオブマイライフ〜私の若草物語」のフローレンス・ピュー。

最悪の悲劇を経験し、心に深い傷を負った女学生ダニー(フローレンス・ピュー)は、恋人クリスチャン(ジャック・レイナー)が友人ら3人と共に予定していた旅行に同行することになる。
5人の旅の目的地は、北欧スウェーデンの奥地にある、ホルガ村。クリスチャンの友人の1人であるペレの生まれ故郷だという。
夜間も太陽の沈まない白夜が続く中、祝祭感に包まれた美しい村で、90年ぶりの「夏至祭」が開かれる。
誘われるまま祭りに参加したダニーたちは、祭りが進むうち、悪夢のような村の奇習に直面することになるが…。

10年代を代表するホラー映画の名作「ヘレディタリー/継承」のアリ・アスター監督の、同作に続く長編2本目の作品。
評論家から、非常に高い評価を受け、興行的にも大きなヒットとなった。
一方、一般観客の評価は分かれる傾向にある。

ジャンルとしては、いわゆる、「田舎・辺境に行ったら、やばい部族のやばい風習や儀式に巻き込まれて、酷い目に遭う」系ホラーになろうか。
ただ、ホラー映画にしては、いわゆる恐怖を煽る表現や、サスペンスやスリルを高める表現は控えめ。
監督自身は、ジャンル分け無用、あるいは、ダークコメディと表現している。
底なし沼にズブズブとハマるように、奈落に落ちていく若者たちの様子を、粛々と描く。
全編を覆っているのは、薄気味悪さ、である。
画面を歪ませたドラッグ描写、グロい描写、その他ひたすら不愉快な描写が頻出する。

今作の見どころは、青い空、白い雲、緑の草原、綺麗な花々、白い衣装を纏い、笑顔の住人たち、というホルガ村の楽園めいた表面の描写と、その裏側で進行している、外界の常識の通用しない謎めいて不気味なシステムの、ギャップの生む薄気味悪さ、そして、その隠されたシステムの全貌が明らかになった時の、何とも言えないイヤ〜な感慨にある。

2作目にして、アリ・アスター監督の作風は確立している感がある。
すなわち、作り込まれた画面構成、とにかく観客に嫌な気持ちを味合わせることへの暗い情熱、運命論的にキャラクターが「予定された結末」へと導かれる、伏線の張り巡らされたストーリー、先行ホラージャンルの枠組みを使いつつ、監督の経験に基づく異なる要素をミックスさせる趣向、である。
今作でも、これらの作風はイヤと言うほど味わえる。

特筆すべきは、今作が、破綻に瀕した男女が別れに至る経緯を丹念に描いた、失恋物語、ということだろう。
監督自身の失恋の経験がダイレクトに反映されている、とインタビューなどで述べられている。
ここまで、イヤな失恋ものも他にないと思うが…。

この観点からストーリーを眺めると、一見観客を不愉快にさせるだけとも思える今作の、真のテーマが見えて来るように思う。

主人公のダニーは、もともと精神的に不安定な傾向があり、さらに冒頭で、考えられる最悪の悲劇に見舞われ、深刻な精神的ダメージを負った状況にある。
ここまで極端でなくとも、現代社会を生きていれば、苦しい時、辛い時、精神的に傷ついた時は、しばしば訪れる。

そんな状態のダニーに対して、彼女からすれば、本来1番に共感を示して痛みを共有し、寄り添ってほしい存在である恋人のクリスチャンは、ひたすらにその期待を裏切り続ける。
若く無責任な彼にしてみれば、貴重な大学時代の思い出となる男友達同士の下心もある北欧旅行や、民俗学の論文の執筆は、ダニーの悲劇以前から計画していたお楽しみや悲願であり、そんな中交際中の彼女に降って湧いた悲劇は、正面から向き合うにはあまりにも重すぎるのだ。
彼が、ごめんよ、というたびに、ダニーの心の中に溜まっていく不満。
自分が大切にされていない、という不安。

一方、ホルガ村の村人の思想は、1人の喜び、悲しみ、痛み、快楽、生と死すらも、村の構成員全員で共有する、というものだ。
そこには、ダニーが、何よりも求めて止まず、にもかかわらず絶望的に与えられなかった、究極の共感がある。

一方が、交際相手から得られない共感を第三者に求めた途端、もう一方が他方に裏切られたと感じて、報復的な行動を取り始め、事態は悪化していく、などということはよくあること。

一方が思いやりを求め、他方がこれを理解せずに、(少なくとも相手視点から見て)思いやりのない態度を取り続けた結果、別れたカップルのなんと多いことか。

ダニーは監督自身の投影である、というアリ・アスターのインタビュー記事から想像するに、今作は、交際相手から思いやりを欠く態度を取られた結果、交際関係の終焉に至ったアリ・アスターが「究極の共感を見せてやるよ!!!!」という当て付けで作った映画ではなかろうか。
今作ではクマが象徴的に使われるが、北欧神話上の意味合いは別にして、男性が女性から「クマさんみたいで可愛い」などと言われて複雑な気持ちになることは、よくある話だ。
アリ・アスターの実体験に根差した強烈な皮肉と捉えると腑に落ちる。

しかしながら、一方で、「共感」という概念の抱えるある種の欺瞞を炙り出すことに、今作の真のテーマがあるようにも思える。
共感の権化のような村人たちの、徹底した薄気味悪さ、非人間的な印象もさることながら、クライマックスの例の建物の中のある人物の印象的な言動は、まさしく欺瞞が露わになった瞬間であって、象徴的であろう。
人は、本質的に独りであり、共感は一時的な癒しになっても、本質的な救済にはなり得ないのだ…。

ダニーが望んでいた共感とか、思いやりって、そういうことではないのでは!!??という、もっともなツッコミは織り込み済みだろう。
今作は、やはり、監督自ら述べる通り、失恋をネタにした、あまりにも趣味の悪過ぎる、誰も笑えないダークコメディ映画、なのかも知れない。

10年代ホラー映画の俊英が放った、色々な意味で印象的なカルト的怪作。
なお、私の感想は、こんな祭りはイヤだ!!!特に、こんなベッドシーンはイヤだ!!!であった。
イヤさも含めて、映画全体としては、まあまあ楽しんだのではなかろうか。
アリ・アスター、色々な意味で恐るべし。
引き続き、注目したい。