足拭き猫

風の電話の足拭き猫のレビュー・感想・評価

風の電話(2020年製作の映画)
4.1
諏訪敦彦監督舞台挨拶つき上映会。

ハルは9歳で津波で家族を失うという体験をし、そこから時間が止まったまま、どこかこの世の物ではないようにおぼつかなく生きている。
ハルも森尾(西島)もクルド人難民たちも居場所を奪われてしまった。災害により、あるいは国策、戦争により。登場したクルド人のおじさんは実際に入国管理局で3年間収監されていたそうだ。

物と記憶について考える作品だった。
福島原発に近い森尾の家には子供たちが使っていたおもちゃが散乱したまま。今でも存在している「物」に記憶が宿っている。父や姉も生きているし、帰ろうと思えば場所はある。
ハルは赤いボールを通して家族の記憶に触れられるのみ、大槌の家は土台しか残っておらず、寄るべきものがすべて失われている。ハルの、「なぜ誰もただいま、と言ってくれないのか」という叫びの喪失感が深い。
彼女は妊婦のお腹を触って、初めて命を実感がある物としてとらえたのだろうか。居場所がないのは自分だけではないのだと、クルド人や森尾を通じて知ったのだろうか。家族や友達、亡くなってしまった者に対する記憶を受け継いで生きていこうと決心をする。

最後にハルが叔母の家に戻り、朝食を作ってあげるシーンを撮影したそうだがその場面は丸ごとカットしたとのこと。

モトーラ世理奈さんはハルを全身で表現していた。監督が「モトーラ世理奈を撮った」と言うように、その存在が作品を特別なものにしている。西田敏行が彼女は受けの芝居がすごい(監督は他の役者の演技を引き出す芝居と解釈していた)と言ったそう。ラストシーンは2回目の撮影を採用と聞いてあれを2回やったのかと驚いた。表情だけでなく手を洗った後の所在なさげな動作などもすごい。手といえば、話の内容がうろ覚えなくらい別府康子さんのハルに添えられた手元の演技にも目が奪われた。西田敏行は相馬地方の民謡が素晴らしかった。

原発の近くでは崩れたままの民家、放置されたままのガソリンスタンドなどがあり、終わっていないのだと思った。ハルの家の回りは工事で整備され、あの一角のみ残されているとのこと。

旅の場所が分かりづらく時に迷子になりがちだったので字幕で地名が出てきてもよかったのでは、と思うが普遍的な物語にしたかったのかも。