足拭き猫

オッペンハイマーの足拭き猫のレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.0
自分の祖父は軍隊で1日違いで広島の原爆を逃れたらしい。海軍で呉に1945年8月5日に入っており、翌日広島に行く予定だったとのこと。また原爆投下の標的となっていた小倉は9日の上空の視界が悪く、目標が長崎に変わったという話もよく知られている。
ロスアラモスの科学者たちがトリニティ実験が成功したのに歓喜している姿を見て、原爆投下後のその場の惨状を聞いたり読んだりしてきた側としては苦々しい思いだった。同時に自分の住んでいる世界の現象を解明したいという人間の探求心がゆくゆくは自分たちをも破壊するという現実に戦慄させられた。

飛び交う原子や電子の流れが映像として見えているオッペンハイマーの内面を表現する冒頭がうまい。現代の人物を扱うと再現ドラマ的になってしまいがちな日本映画に比べ、オッペンハイマーの若き日と原爆の開発時期、戦後赤狩りで公聴会にかけられるまでを大勢の人間との関わりから次から次へと断片的に見せつつも全体として破綻しておらず、トリニティ実験が嵐で中止されるかもしれない部分も含め緊張感を保ったまま進めるという手腕は単純にすごいと思った。ずっと音楽を鳴らすことで牽引している部分も大きい。
公聴会の証言からオッペンハイマーがそれなりに尊敬をされており、心から彼を憎んでいるのはストローズだけであったのが分かる。劣等感は人を憎む最大の原動力になるのだな。そして登場人物に悪魔のような人間は一人もおらずむしろみな俗人で、オッペンハイマーは変人なりに慕われている。

しかしあまりにも大勢の人間が絡んでくるのでひとつひとつのエピソードは薄い。特に愛人関係にあった女性や妻のところは断片的すぎて、会が終わった後の妻の一言も効果的ではない。女性関係の部分は無くても成立していたようにも。また、原爆開発の目的がユダヤ人であるオッペンハイマーたちにとってナチスを倒すこと以外いまいち明確に描かれていない。共産党を通じてスペインの内戦を援助していたり(ピカソやストラヴィンスキーなど同時代の文化人を愛する一面も)、組合に関わったりということから何かしらの社会的正義感を持って生きていたことは分かるが、そこからロスアラモスの実験所を立ち上げるという関連性が飛躍しているような気がするのは自分が日本人だからだろうか。

水爆の父エドワード・テラーのマッドサイエンティストぶりが印象的で物語を分かり易くしようとすると彼を取り上げた方が良いのではとも思ったが、アメリカ人科学者の研究で大量殺戮につながったのは、ノーランにとってはオッペンハイマーだったのね。

優秀な科学者としての苦悩は伝わってきた。正義感が果たして正しかったのかという葛藤が表現されるのが実験の成果を軍がごっそり持っていって置き去りにされた科学者たちが落胆する場面。この世界の物理現象を探求しその理論が正しかったのかを証明したいという純粋な好奇心・知的な思いと、それが国家にどう利用されるかは常に裏腹だ。私たちが毎日使っているインターネットやカメラやスキャナーなどの光学技術も軍事目的に開発されたことで飛躍的に進展した。
さらに、地球を燃やし尽くしてしまうかもしれない可能性はゼロではないと知りつつも実験を遂行してしまったのも人間の弱さ。個人の欲望を叶えようとしたり社会情勢の命運を左右するようなプロジェクトにとらわれると、一番根本にあるべき個々の人間の小さな命は見えなくなってしまうことを3時間見せつけれられ、かなり鬱な気持ちになった。良心が反対方向に利用され信念が悪を招き入れるという主題は「ダークナイト」にも通じる。
また日本がなかなか降伏しなかったことを含め、探求心や好奇心あるいは利益や欲を満たすために一度始めたらやめられないのはいつの時代にも共通する愚かさであり、かつ共産主義が当時は今よりも資本主義側の国にとって壮大な恐怖で、ソ連が台頭することにより(朝鮮半島がそうだったように)日本が北から占領され、極東における自分たちの有利さが脅かされるのではないかとの焦りも原爆を落とす決断につながったのだろう。

なんといっても時代遅れの科学者となってしまったアインシュタインが肝で彼が「現在の科学者たち」を俯瞰する立ち位置にいたと思う。オッペンハイマーとドイツの学者のように同じものを目指していたはずなのに敵になってしまった、という例もいくらでもあるだろう。

近代物理学はニュートンのリンゴから始まった。
青いりんごに毒を盛る意味は科学の発展の行く先への警鐘と科学崇拝への否定なのかもしれない。