きょんちゃみ

マトリックス レザレクションズのきょんちゃみのレビュー・感想・評価

4.5
【『マトリックス・レザレクジョンズ』が傑作であるのはなぜか】

結論から言って、2021年に見た映画の中でもトップクラスに面白かった。素晴らしい映画である。映画館で見れてよかった。

過去作3本をしっかり見てから行けば、難解だとは全く思わないだろう。ちゃんと前作と繋がっていた。「アクションシーンの描き込みが弱い」などとも思わなかった。生まれ変わったスミスとネオの肉弾戦は壁を使ってかなり新しい動きに挑戦していたと思う。過去作の焼き直しでも全然ないと思う。古くからのマトリックス・ファンを監督が戯画化して冷笑しているような、そういう作品でもないと思う。むしろ、今さら『マトリックス』の第一作と全く同じような劣化版コピーというか縮小再生産版のような第四作を作ることのほうがよっぽどオールド・マトリックス・ファンをメタ的に嘲笑することになるのであって、映画を見ることの楽しさを『マトリックス』で学んだような、マトリックスの正真正銘のファンたちにとっては、この第四作目は本当に誠実な作品だと受け取られることは間違いない。

『マトリックス』の続編として、前にやったことをもう一度やり直しているだけでは全然ないと思う。ものすごくオリジナルな要素を含んだ作品だったと思う。だから、この映画は「変な映画」であるどころか、原点回帰しつつも、新しい「マトリックス」を徹底的にやろうとしたド直球の真面目な映画だし、よく分からない映画では全然ないと思う。難しくもないと思う。

サティが出てきたり、ゲーム内のプログラムであるモーフィアスが現実世界内で砂鉄のような身体を持って具現化する描写もなるほどと思った。トリニティが今度は覚醒するという展開も素晴らしい。

冒頭からオープニングシークエンスに巻き込まれてしまった。『マトリックス』第一作が与えてくれた衝撃と同じ、「この世界を超え出て未知の世界に出会う衝撃」をこの第四作は確実に与えてくれるのであるから、未知のものが最初はよく分からなくても当然というか、よく分からないという法外な経験ができることをなぜ喜ばないのだろうか。

昔から「良い映画には必ず賛否両論がある」というけれども、この映画、私はクリスマスイブに観てきたのに、ガラガラでスカスカの映画館で上映されており、悲しかった。

最後に出てきた「キャトリックスcatrix」みたいな風刺的なギャグが至るところに散りばめられていることも「つまらない」「いじわるだ」という感想を引き寄せるかもしれない。たしかに、「今はティックトックでもスナップチャットでもインスタグラムでも、みんな猫の写真をあげてイイねしあっている、刺激と情報の反射的拡散の時代なんだから、次の『マトリックス』は全員猫でやろう!」という映画制作企画部の社員の発言が最後に流れるという、痛烈なブラックジョークが、ブラック過ぎてもはや笑えないというのであれば、観客がそういう反応になるのもまだ分かる。ただ、私はこういうドス黒い風刺はかなり好きである。

なぜこの映画をこの時代にこの監督が作らなければならなかったのかという部分、つまり、監督のモチベーションの部分も、とても明確に表現されていた。スワームモードという新たな設定について考えてみよう。

二代目アーキテクトというか、劇中ではアナリストと呼ばれている人物の指示によって「群衆モード"Swarm" mode」となった人間たちは、明らかに、トランプ元米国大統領の犬笛的な演説を聞いて「2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件」の主体となってしまった群衆たちを(まるで映画『イナゴの日』のように)想起させる。

トランプ支持者の団体「Qアノン」が、自分たちの唱える陰謀論の正当化に『マトリックス』を使っていたことに対する、監督の怒りが現れているのだろうと思った。

ここで重要なことは、彼ら「群衆」たちは、ネオのように「覚醒した人」かもしれないということだ。実際、「赤いピル(The Red Pill)を飲むことで悪者に搾取されている最悪な現実から覚醒せよ」という主張はむしろいわゆる「オルトライト」、右翼陰謀論者の間でこれまでさんざん唱えられてきたものであり、マトリックスシリーズ自体が被害妄想的な陰謀論者にずっと利用されてきたのである。たとえば、「鳩が政府の監視ドローンである」と主張している陰謀論者は「ウェイク・アップ」という張り紙を町中に貼り付けていたことを知っているだろうか。

要するに、「群衆モード」の人たちは、「超越的真実」へのネオ的覚醒こそが「救い」に見えてしまった人たちの成れの果てとして描かれているのであり、その唯一で超越的で絶対的な真実を盲目的に追い求める姿こそが「群衆モード」なのである。

「俺たちの幸せな日常が、実は機械に搾取されており、俺たちは電池として利用されているのだ!」とのネット掲示板の書き込みを見て「真理に気づいていく」というのはオルトライト的な覚醒プロセスそのものなのである。

だから、「マトリックスのネオ的なもの」を今作は換骨奪胎せねばならなかった。

ネオ的な人間像を本作は越えなければならなかったのである。だから、トリニティはむしろ覚醒前のマトリックス内世界のほうを美しいと言って肯定してみせる。

我々が覚醒せねばならないのは、マトリックス世界からである以上に、むしろ群衆モードからなのである。

そしてその覚醒が、ネオ的な覚醒ではダメである。ネオ的な覚醒では、その覚醒先こそがまた群衆モードなのかも知れないからだ。今作は、それが言いたいのだと思う。ネオ的な覚醒からトリニティ的な覚醒へと時代は移っていかなければならない。

端的に言って、トランプの敵を打倒するためであれ、逆にトランプを打倒するためであれ、群衆モードになること自体が今作の敵になっていることは、素晴らしいことだと思う。

思えば、ネオは第一作目で、マトリックスの美しさの虚妄を暴き、否定することで真の世界に覚醒した。だから、彼はマトリックス内の物理法則を否定する力を得たのであった。しかし、今作でネオは空を飛べない。

そんなネオに対して、第一作目の登場人物であるサイファーは、マトリックスの精巧さ、美しさ、ステーキのうまさを捨てきれず、マトリックス内部へと再入眠することを選び、「裏切り者」とされた。

しかし、この第四作目において、ティファニー(トリニティ)は、機械が作り出したマトリックスの美しさを認めることで機械と人間の双方が共存する新たな世界を肯定する道を示したのである。これはネオ的な覚醒とはまったく違う覚醒観だと言える。マトリックス内だってひとつの現実であり、マトリックス外だってそれはそれでもうひとつの現実なのだという悟りがトリニティの覚醒の正体であった。

トリニティは、「マトリックスを超え出て現実世界に目覚めた」のではなく、正義の味方(=人間)と悪者(=機械)がいるという二項対立的で、群衆的で、同質的な、そういう見方をするのをやめてしまったのである。だから、彼女は新たな救世主(the one)となれたのだ。

このトリニティの振る舞いは、①ネオかサイファーか、②実在か仮想現実か、③超越的になるか内在的であるか、といった伝統的な二項対立の前提を壊していると言えると俺は思う。これまでの過去作が立っていた狭い土俵自体を壊したのが、この四作目であった。

だから、トリニティが、「ここが仮想現実である」などということは、教えられるまでもなく、とっくに知っていつつ、それでもなお、夕焼けの中を秩序立って飛ぶ鳥たちのプログラムを見てひとこと、「美しい」と述べ、救世主として覚醒するシーンこそが、本作の白眉であると言ってよいだろう。このシーンを、鳥たちが機械であると主張する陰謀論者への些かトリッキーなカウンターであると読み込むこともできる。

人は常に変われるということを、自分の人生によっても、作品によっても、何度も何度も体現し続けるウォシャウスキー監督とトリニティの姿に、心から尊敬の念を抱いた。
きょんちゃみ

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