きょんちゃみ

スミス都へ行くのきょんちゃみのレビュー・感想・評価

スミス都へ行く(1939年製作の映画)
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この映画、スミスが議会での不正法案成立を妨害するために23時間の演説をするシーンがあるんだけど(=そしてこの行為は「フィリバスター」といってアメリカではよくあること。発言中の議員の発言を強制終了させることは表現の自由の妨害だから許されない。ちなみに「フィリバスター」の最長記録はストロム・サーモンド議員による24時間18分で、バーニー・サンダースも8時間とかやってる)、日本でもフィリバスターとかあるのかなって思って調べてみたら、2024年3月1日に2時間54分のフィリバスターが起きてて少しだけ驚いた。いまから2週間前の話である。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/312527

この映画、現代の映画よりも、当時はフィルムが貴重なせいか、めちゃくちゃテンポがいい。現代の映画と比べても全然面白さで負けない(なんなら圧勝するレベル)と思うから、ぜひ見てほしい。かわいくて、いい映画。全然古めかしくない。Amazonプライムでも無料で見れてしまう。

最初にあらすじだけ書いておく。ある日、モンタナの上院議員が急病で死んだ。それで、その上院議員とグルだった新聞王テイラーは、手下のミラーをその上院議員の後任にしようとする。当時は上院議員が任期途中に死去や辞任した場合、後任者選出は補欠選挙ではなく、知事の指名により行われることがありえた。だから、その知事も新聞王テイラーの言いなりなので、新聞王テイラーは、知事に手下のミラーを指名させることで、手下のミラーを死んだ上院議員の後任にしようとしたというわけ。

そしたら、当然のことながら、地元議会の反対にあって、それも難しくなる。それで、地元議会が推してるヒルを後任にしようにも、新聞王テイラーが怖くて知事にはそれができない。知事は板挟みになってしまう。

そこで知事は、街で一番の大馬鹿者であるスミスという名前のボーイスカウトの隊長(=大人のくせにボーイスカウトの指導監督をやっている男で、子どもたちの人気者)を後任にすることにした。スミスなら、世間知らずの馬鹿だから、テイラーたちは余裕でコントロールできるし、政治のことを分からないから、アドバイスをしていけばなんでも聞くと思ったわけ。

それで、スミスは、上院議員として中央議会に出席するために首都ワシントンに出かけていく。そしたら、そこでスミスが見たのは、建国の精神もとっくに腐り切っていて、憲法を誰もリスペクトしていない汚職政治だった(=そもそも神のもとに全員が平等とか言ってるくせに黒人差別がバリバリに続いている時点で誰もゲティスバーグ演説なんてお題目だとしか思ってない)。それで、憲法しか知らないスミスがマジギレして、みんながスミスを世間知らず呼ばわりするなか、「むしろ間違ってるのはお前らだ」とスミスは言い始める。傀儡として飼い慣らそうとしていたテイラーたちはスミスが突然豹変したことにビビり出す、という映画。

1939年といえば、日本では国家総動員法をやってるときに、アメリカでは『スミス都へ行く』がやっているって、すごい時代だなと思った。

少し考えてみたい。

『スミス都へ行く』でフランク・キャプラが描いた、アメリカが汚職まみれになっている状況というのは、同時に、その腐敗を告発するスミスの表現の自由が守られてはいるような状況でもあるわけでしょう。

この『スミス都へ行く』のなかで、スミスの演説(フィリバスター)こそが「民主主義の真の実践democracy in action」であるとして、独裁国家の人々がこれを見学にくるというシーンがあるけれども、このことは同時に、腐敗したアメリカがそれでも少なくとも表現の自由だけは守っていたということを意味すると思う。この時代の日本で、スミスばりの表現の自由を発揮したら銃殺だっただろう。

NHKのインタビュー番組「ここから」で、昭和16年(1941年)の日米開戦直前に、自由に演劇もできなくなり絶望した俳優の宇野重吉が自殺をしようとする前に、渋谷の映画館で見たフランク・キャプラ作品の『スミス都へ行く』を見て、死ぬのをやめたというエピソードを山田洋次監督が語っていたらしい。本当かどうかは分からない。ペイン議員も最後に自殺しようとしたが、失敗していた。理想に燃える若者を前に自殺して逃亡するのは卑怯だと思ったのかもしれない。

ペイン議員が最後に自殺しようとするが失敗し、議場に戻ってくる最後の数秒があまりにもご都合主義的な展開だという意見もあるようだが、そうは思わない。ちゃんと、改心するための伏線は描かれていたからである。ペインはスミスの父を一度見殺しにしているのだ。二度目も殺すとなると、それには心が耐えられなかったのだろう。

熱い理想によって現実主義者の冷たい心が溶解していくということもまた、ひとつの現実なのだ。私はこの映画をみてそう思った。「暗いだけの現実」はむしろフィクションで、本当の現実には、一筋の理想の光も差し込んでいる。自称リアリストは、そのことにしばしば、気が付かない。
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