きゃんちょめ

あのこは貴族のきゃんちょめのレビュー・感想・評価

あのこは貴族(2021年製作の映画)
5.0
【『あの子は貴族』について】

以下、この映画を見て私が個人的に考えたことを6点に分けて論点ごとに述べる。

⑴. [お見合いアプリの階級的意義]
 この映画には、「マリーズ」というお見合いアプリ、しかも高級そうなアプリが出てくる。ネイルサロンの人から、「部屋探すときに空室ありますっていう張り紙探して歩かないでしょ?それと同じで、恋愛や結婚だって、不動産屋みたいなところにマッチングしてもらった方が効率的じゃない?だって、条件のいい人ってこっちのことも値踏みしてくるし、疲れない?結婚したら毎日顔合わせるんだし、年収がどうとかより一緒にいてラクな人が一番だと思うけど。」といって、古いスタイルのお見合い(家柄とか年収とか)ではなく、もっと細かく条件を選んで、誰かにマッチングしてもらえる方法が紹介されるのである。しかし、マッチングアプリと言ったって自分より階級が下の人とはあえてマッチングされたがったりはしないだろうから、階級の再生産をより効率的に行うための手段が新しくなってきているに過ぎないのである。とはいえ、華子がここで「出会い系みたいなもの?」と尋ねたときに相手からそれを否定されていることからもわかるように、これまでの不特定多数のひととランダムに出会うという出会い系アプリではなくて、むしろ狙った相手をピンポイントで狙い撃ちする仕組みとしてのアプリが映画に登場し魅力が解説されているところは面白かった。マッチングアプリを使用しないとデート中にまで値踏みが発生するが、マッチングアプリを使用するとデート中には値踏みが発生しにくいということもあるのだろう。というのも、マッチングアプリを使用しない場合、基本会話を通して、相手のことを知っていくので、こんな人かなと想像して、会話の中で知った情報からこれは◯、これは△とか、値踏みして、付き合うかどうか決めるわけだが、それに対してマッチングアプリを使用する場合は、学歴、趣味、年収、など交際に必要な条件はある程度判断し切ってから会うので、会ってから余計な値踏みは発生しづらい。高級なマッチングアプリを使えば、会わないとできない値踏み、つまり性格的に合うかどうかとかなどのみを問題化させることができるというわけだ。


⑵. [階級の存在証明]
 「階級が上の人」と言ったときに、人がパッとどういう人のことを思い浮かべるかといえば、カネか学問を持つ人のことであると思う。つまり、階級とはカネと学問が作るものだと人は思っている。しかし、階級は、実はそうやってカネと学問によって測るものではない。というのも、カネとか学問だったら、数年あればどんなに階級が下のひとでも、学者と(こちらは素人という前提でならば)楽しく談義ができるくらいまでには身につけられるものだからである。というか、いまどきそのために必要な話題や知識ならばすぐにウィキペディアのようなもので手に入るからである(ただし、思考力というのはウィキペディアで身につけるものではないとは思うが)。現にこの映画の中で上位階級ということになっている青木幸一郎にはそれほど学問の素養があるようには見えない。階級とは、むしろハビトゥスで測るもののことである。ではハビトゥスとはなにか。貧乏人が理論を必死で学ぶことによって何時間も学んで身につけたような高度な技能が、金持ちの間ではもうとっくに常識になっていて、しかし金持ちらは、それを勉強によって身につけたわけではなく習慣の中で自然に身につけてきているから、むしろそのような高度な行為がなぜ出来ているのかを説明できないのであり、それくらい自然にできてしまう、そのような状況をさして「金持ちにはハビトゥスがある」というのだ(実際、劇中で青木幸一郎はタクシーに乗る華子に対する傘の傾け方やレストランでの会話などが非常に自然であったし、華子も和室に入り座布団に座るまでの丁寧な所作を完全にマスターしていたことが分かるだろう。ああいう動作や着物の選び方などは理論を勉強して身につけたものとは考えにくい)。つまり、ハビトゥスとは、「センスの良さ」みたいなものである。センスの良さは大学で理論を学んで身につけることもできるが、膨大な芸術作品に触れることでなんとなく身につけることもできるのであり、その「なんとなく身につけているセンスの良さ」こそが金持ち的なハビトゥスなのであると僕は思っている。だから、貧乏で、かつセンスがいい人はなぜ自分が選んだものをセンスがいいと言えるのかまで説明できるが、金持ちでセンスがいい人はなぜ自分が選んだものがセンスがいいのかを説明できないし、説明しようとさえ思わない場合すらあるのである。そして、階級とは学問やカネに差があるかどうかではなく、このハビトゥスに差があるかどうかで測るものなのであり、最近金持ちになった家庭ではなく代々金持ちであるような家庭のみこのようなハビトゥスは醸成されるのである。「テレビとか映画とかに映らない文化もあるのよ」と、劇中で言及されているが、あれはこのような暗黙のしきたりについて語っていると思われる。このような、カネや学問の差のことではない、ハビトゥスの差としての階級差を描いたことがこの映画の凄いところだと思う。これまで、日本には階級は存在しないとさえ言われかねないほどに、日本の中にずっと古くからあり続けてきた階級を扱った作品というのは少なかったが、現にこの映画で描かれたような階級差は存在するのである。


⑶. [青木幸一郎はおしぼり中華が人生のピーク]
 青木幸一郎は、安い中華屋で美紀とおしぼりを投げ合っているシーンが出てくるが、あのシーンが人生における幸福のピークなのだろうと思う。あれ以降の青木幸一郎の人生はおそらくロクでもない。出たくもない選挙に出て、プレッシャーの中で過ごすのである。そして、あの安い中華屋に行くためにかかる金額というのはだいたい1000円くらいだろう。人が幸福になるためにかかるために必要な金額は実は1000円くらいなのではないかと思わせる名シーンだと思う。


⑷. [雨男と階段について]
 ところで、青木幸一郎は雨男である。なぜ人生における大事な瞬間には常に雨が降っているのか。私が思うに青木幸一郎の人生には「あらかじめ」雨が降ることが「決定されている」ということを暗示するためであると思う。天気が雨でも人にある程度自由はあるけれども、しかし、雨だという条件下での自由に過ぎない。例えば、雨ならピクニックにはもういけない。そういう、「仕組まれた自由」の中でしか生きられない人生を青木幸一郎は送っていて、だから常に雨が降っているのだと思う。ちなみにこの映画、美紀が田舎に帰ると階段を登るためにひとりでスーツケースを運ばなければならないシーンが出てくることからもわかる通り、階段は社会階級(social ladder)のメタファーになっている。


⑸. [自転車ニケツにおける革命]
 革命を起こすために、なにもバスティーユ牢獄を襲撃する必要はない。単に、金持ちには決して手に入れられない幸福が貧乏人には手に入れられると示せればそれで十分なのだ。その点、この映画で描かれた里英と美紀のニケツシーンは革命的であったといえる。あのふたりの起業家としての将来は、確実に、青木幸一郎のその後の人生よりは楽しいのではないかと思えるからである。


⑹. [不倫セックスを正直に要求する男の特異的キモさ]
 この映画には、不倫セックスを正直に要求する男が描かれていて、その正直さが逆に超絶キモい。彼はその正直さを「男らしい」とか思っているのだ。そもそも、よく考えてみると、この映画は次のような2×2のマトリックスを描くことができる。

❶実家にカネあり、上品さあり:青木幸一郎
❷実家にカネあり、上品さなし:開き直り不倫男
❸実家にカネなし、上品さあり:(劇中描写無し)
❹実家にカネなし、上品さなし:美紀の弟

実は、このマトリックスの中で、超絶にキモいのは❷だけである。実は、❹はキモくない。❹は結婚式で、ケツを丸出しにするシーンが描かれていたが、あれも別に、観客はそこまでキモいとは思わないだろう。というかむしろ、「アピタで働いているセフレがいる」とかいってはしゃいでいた美紀の弟くんに私は一番好感を持った。❶も現行社会に逸子のような違和感を持っていない点でけっこうキモいが、しかし、❷ほど超絶キモいとは思わないはずだ。では、なぜ❷だけが圧倒的かつ特異的にこれほどキモいのかというと、❷の男は(親の)カネの力でのみ田舎の上位階級に君臨しており、❶のような都会の階級上位の人間が身につけている上品さすらないからである。もちろん都会の階級上位の人間もかなりヤバい奴らではあるが、しかしそれを観客にそれほど強くは意識させないハビトゥス、つまり上品さがある。それに対して❷のような田舎のクソ男には、財力以外になにもないのである。この剥き出しの財力と性欲を「正直に」見せつけてくるこの男こそ、階級上位の人間がもっともキモくなったときの姿であると思った。
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