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『スパイの妻』に投稿された感想・評価

Mayu

Mayuの感想・評価

3.2
ジャケ写に惹かれて

最初から最後まで自分の思っていたストーリーとら全く違ったこの映画🎞

スパイにもいろいろあるなァ
終わり方や登場人物の行く末に疑問が残る

蒼井優はハマってた

このレビューはネタバレを含みます

妻は夫を信じていた
そして愛していた
この時代
それは狂気となり
失望となる

日本の国の正義か
世界共通、人としての
正義か…
海外との取引がある優作は
日本が満州で行っていた
国家機密をアメリカへ持ち出すため
妻の聡子と亡命の作を練る


優作を愛するがゆえ
聡子は勇気ある行動を起こすが
それは全て、聡子を利用した
優作の裏切りであったのが
とても哀しい
太平洋戦争ちょっと前が舞台のお話。
解説読んでみたけど、満州で731部隊がむごい実験をしていたというのは実話らしい。
正気でいることが狂っているとされた時代。
あっぱれお見事、鮮やかに欺かれた。

蒼井優の喋り方が、次長課長河本とゆりやんの古い邦画ものまねコントみたいで面白かった。

「質屋の外で、私があなたの目になっていると思ったら、嬉しかったんです」
久しぶりの黒沢清監督。こんな感じだったっけ、と思うほどセリフが舞台じみていて慣れるまで時間がかかった。すべてがセット感満載というのも、古き良き"昭和映画"へのオマージュなのか。それとも8Kが裏目に出たか。

何を考えているのかわからない高橋一生も、レトロなワンピースがよく似合う蒼井優もなかなか良かった。戦前の富裕層の欧米式の家具や小物、ステンドグラスなど、室内の美術にこだわりを感じた。

731舞台の人体実験をにおわせ、軍部や憲兵の強権的支配が広がるにおいを感じさせるサスペンスを取り入れた歴史劇はやはり黒沢清監督。日本の闇に夫婦は巻き込まれたのか。いや、巻き込んだのは高橋一生のほうだったのか。ラストはいかようにもとれる考察のしがいのある作品だった。でもベネチアで銀獅子賞は驚きかな。
「私は一切狂ってはおりません。ただそれがつまり、狂っているということなんです。この国では」

やられた。実話を知らない自分からすると面白いし、黒沢清の表現がおいしい。
komekuey

komekueyの感想・評価

2.5
よく分からなかった。
つまり自分の正しいと思ったことを貫くためならどんな犠牲も厭わないという事だろうか。
妻があまりにも子供ぽくて驚いた。
でも義理の甥には非情な仕打ちも平気。
なんだか全て一本調子で進んでいってた。
人の心なんて分からない…たとえそれが自分の旦那や友人であっても。

黒澤清としては初めての現代劇ではない映画。これまでの清映画とはかなりテイストが異なるが所々に垣間見える清節にブチあがった。
cie

cieの感想・評価

3.3
最後の終わり方、なんか半端な気が…。
あんなテロップ出たら、実話っぽく見えるなぁ。
で、当初の目的どうなったの?
亡命して終わり?
日本が負ける=目的を果たした…ってことにはならないと思うんだが。

聡子の優作への接し方がなんか大袈裟だったり、街中での会話の声が大きすぎ!とこっちが心配になる。

ハラハラするようでそこまででもないなー、うーん。
【ゲオルグ・ジンメル的な境界線論:『社会化の諸形式についての研究』】

社会学者のゲオルグ・ジンメルは物事の表面と裏面とを同時に見るような思考をした人だった。つまり、ジンメルは、「分離と結合は常に同時に起きる」と考えた。

例えば、ほんのわずかしか離れていない村Aと村Bを道で結んだとする。道ができるまで、村びとたちの間に「別々の村だ」というような感覚すらなかったほど近くに存在した村Aと村Bを考えてみよう。

そこへ、道ができた。そのとき、この道は、「この道は二つの村を結合した(=村Aと村Bはその間を通る道によって結合されている!)」という考え方が生まれる根拠となるのと全く同時に、その裏面で「この道は二つの村を分離した」という考え方が生まれる根拠ともなっているらしい。事柄の裏面よりも表面の方が意識されやすいとしても、である。

どういうことか。

つまり、この「道」があるせいで、「ふたつの村は結合されているという考え」が生まれやすくなる一方で、「結合されうるようなものどうしは別々のものとして分離されていなければならない」ということから、「ふたつの村は(道によって結合されうるものとして)分離された別々の村だという考え」も、同時に生まれえるわけである。

やはり難解である。どういうことだろうか。

言い方を変えれば、「ここに道ができた。この道によってふたつの村は結合されているんだ」とある人が言った瞬間、その話者は、「ここに道ができた。この道によってふたつの村が結合されているのだから、この道によって結合されることができるくらい、このふたつの村は別々の村なのだ」と意識されない裏面で言っていることになるのだ。

ジンメルは最終的に、「AとBを結合する!」と人が宣言するとき、実はAとBとの分離が同時に起きてしまっていて、「AとBを分離する!」と人が宣言するときには、実はAとBとの結合が同時に起きている、つまり「分離と結合は常に同時にしか起きないという考え」に到達したようだ。

「またそんな非科学的なことを言うなよ!」と思うかもしれないが、このようなことは化学的にはよく起きている。これは私の個人的な考えに過ぎないが、例えば、「酸化反応」と「還元反応」は対義語だけれども、常に同時にしか発生できない。だから「酸化還元反応」と呼ぶのである。

さて、「全く逆の意味が常に同時にしか発生できない」というのは、それほど変なことだろうか。

実際、逆のパターンも先ほどの事例を使って考えてみることができるだろう。

「村Aと村Bはその間を通る道によって分離されている!」と誰かが宣言するとき、その村Aと村Bは「道」という、村Aと村Bの間を「つなぐ」ものがあってはじめて分離が達成されていることになるわけだ。

つまり、「ここに道ができた。この道によってふたつの村は分離されているんだ!」とある人が言った瞬間、その話者は「ここに道ができた。この道によってふたつの村が分離されているのだから、この道を間に挟むことによって分離されることができるくらい、このふたつの村は結合されたひとつの村なのだ」と意識されない裏面で言っていることになるのだ。

「道」ではなく「仕切り板」だって、そうである。仕切り板が、「仕切り板を介したコミュニケーション」の通路にはじめてなることで、あるコミュニケーションを可能にする(=結合させる)場合があるだろう。なぜなら、その場合、「仕切り板に接していること」が全く似ていなかった両者の共通した特徴になるからである。このような共通点は、仕切り板で分離されなければ発生しえなかっただろう。

ジンメルは、人間関係というのは、この村Aと村Bとの間にある「道」のようなものだと考えたようだ。

人間関係が生まれると、その瞬間に、結合されると同時に分離されるのが、個々人というわけである。そしてその人間関係の網の目が社会の正体だ、ということになる。

(本当は次のようなことは想定しても無駄なのだが、もし仮にそんな状況を想定できるとして)「人間関係ができる前」を考えてみよう。「人間関係ができる前」には何者でもなかった「人々(というより「何か」と言った方が正確)」が、人間関係ができることによってそれぞれの個人としてのステータスというかプロパティ、あるいはメンバーシップ(=例えば「先生」とか「生徒」とか「妻」とか「子」とか「客」とか)のようなものを付与されるというわけだ。そしてそのような規定の付与を担当してくれているものこそ人間たちの間の諸関係なのである。

私が想像するに、このような社会理論は敷衍していくと、「まず個々人がいなければ社会的諸関係などというものはありえないはずだが、しかし社会的諸関係がなければ個々人などありえないはずだ」という「解きほぐされるべき論理的循環」を抱え込むことになるだろう。

しかし、このような循環は本当に「解きほぐされるべき」なのだろうか。むしろ、そのような社会と個人との間の対立と循環を含みこんだ構造自体が、「社会と個人のどちらが先か」などという問題が発生する余地がない仕方で、ずっと存続し続けてきているということになるはずだ。

つまり、ヒトが人間になる以前の原始の時代、太古の時代から、つまりサル山にさえ、個人と社会との間の、対立的かつ循環的な構造自体は、微弱な仕方でではあるが確かにあったし、この構造は生物進化の過程のどこかのタイミングで突然発生したものなどではなく、微弱な「循環の構造」からより高次の「循環の構造」へという、時間的な展開はあれど、常に「循環の構造」それ自体はどこにでもいつにでもあり続けて来た、ということになる。

ここでもまた、個人(=メンバー相互の分離)と社会(=メンバー相互の結合)は、常に同時に発生しているということになる。つまり、分離と結合はやはり、常に同時にしか発生しえないということがまた確かめられているのだ。

つまり、この循環構造は、はじめから循環構造として発生したのであり、それより根本的な秩序に還元することで説明することができない第一次的な秩序なのである。個人と社会とが対立しながら、それでいて相互に規定し合うというこの「循環の構造」自体が、どこまで時間を遡ってもその循環性という構造を保ったまま、強度と具体的メンバーだけを変えながら、連続的に存在し続けてきたというわけである。だから、どれだけ時間を遡っても、社会がない時代は存在しないという結論になる。このことを極端化して言えば、(多)細胞を持つ生物が発生した時点で、あるいはそれ以前からさえ、生命は非常に微弱な「社会」の構造を持ちはじめていたことになるだろう。

なるほど、ジンメルにそう言われてみれば確かに、分離とは結合のことである。例えば、離婚とか破局を普通、人は「分離」として捉えるが、その離婚経験は離婚した2人を「元夫」とか「元妻」という仕方で再結合しなおすことになる。

「雨降って地固まる」という諺は、「トラブルが発生したが、それが解決してしまうと、そのトラブルが発生する前よりかえって良い状態になっていること、又は、往々にしてそういうものであるという達観」を意味するらしいが、実際、対立をするとまさにそのことによって両者の間に「腐れ縁」が生じたり、激しい喧嘩をするとまさにそのことによって両者の間には新たな仕方での再結合が起きたりする。

例えば、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるが、一見すると分離に見える「喧嘩」も、江戸で喧嘩が起きた場合、より高次の価値観を持った仲裁者(=やくざの親分)のようなものが召喚されなければ勝敗は最終的に決まらず、だから喧嘩は周囲のギャラリーたちに、その仲裁劇を通して、より高次の価値観を教え広め、それによって結合(喧嘩の当事者同士、ギャラリー同士の結合)を強め、社交圏をも広げる効果(加藤秀俊著「紛争の美学」、加藤秀俊編『紛争の研究』所収)を持っていたそうなのだ。つまり、分離ではなくむしろ結合のためにこそ重要な意味を持っていたのが喧嘩だ、という考え方も存在する。

要するに、ふたつのものの間、つまり「境界に割って入るもの」が実は新たな「バッファー」となってふたつのものの間を新たな形式で、分離すると同時に繋ぐのである。

実は、絵の「額縁」もそうである。額縁は外界と絵の中を分離しているわけだが、しかし、「額縁」は絵を美術館の全体性の中にうまく調和させることで絵と美術館とを結合しているのである。額縁は「一方の全体性(=美術館)が他方の全体性(=絵)を、どちらか一方が他方によって引き裂かれることなしに、捉えるための手がかりになる」ようなものであるとジンメル風にいうことができる。

このような理論的視座から、ジンメルは秘密と社交の関係をも分析していく。

実際、「秘密の全くないコミュニケーション」などというものが仮にあったとして、そこに面白みなどあるはずがない。秘密は各個人を分離しているが、その秘密が媒介することによって各個人は、同時に結合されているのである。

仮面舞踏会で人はなぜ仮面をつけるのかをジンメルは解明しているとさえ言えよう。ジンメルの考えによれば、「社長に気に入られるため」などの動機から発生する、「相手が誰だかわかっているコミュニケーション」でも秘密は常に発生しているのだが、それに対して、「相手が誰であるかすらも秘密になってしまった仮面舞踏会」は、もはや純粋に「社交のための社交(←ハーバーマス的な、合意や真実の確定のための社交、つまり互いに相手の置かれた状況を理解し合ったり、利害を調整しあったり、合意を目指すための対話などでは全くない社交、むしろ合意や真実などはどうでもよくて、たとえ無目的でもコミュニケーションそれ自体が楽しいという社交)」であり、こちらの方が秘密の効力は増しており、社交の面白みは増すのだという。

これは、現代のSNSなどを通した、相手の素性がわからないコミュニケーションにもいまだに一定の人気が保たれていることの解明にさえなっているかもしれない。

「大都市では田舎に比べて人が冷淡だ」などとは、よく言われることであるが、逆に田舎と同じ強度や頻度で他人と接していると、大都市はうまく回らなくなって、憎悪が生まれたり、ギスギスするかもしれない。だから、大都市的な冷淡さ(=ほどよい分離)によって大都市という結合は同時に保たれているとも言えそうだ。
Yuka

Yukaの感想・評価

3.6
蒼井優がこの時代の女性役にマッチしてるから観れる。ストーリーとしては最後が中途半端に感じた。
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