いわし亭Momo之助

鬼ガール!!のいわし亭Momo之助のネタバレレビュー・内容・結末

鬼ガール!!(2020年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

意外に深いテーマ

河内長野市の実家に帰って大阪第一交通のタクシーに乗るたび、後部座席に『鬼ガール』のステッカーが貼られているのを見ては、市の広報紙の表紙に一日消防署長を務めた井頭愛海さんを見つけては、本当に映画の完成を楽しみにしていた、単なる田舎オヤジのいわし亭にしてみれば、完全奥河内ロケで撮影された数々のシーンは、ドローンの空撮の妙もあって、懐かしくも新しい風景の連続だった。
あ、あそこは小学生の時によく遊んだ石川、あ、あそこは毎年、夏休みに写生をしに行った観心寺、あ、あそこは中学の時に桜を見に行った長野公園、あ、あそこは大学ん時に行った関西サイクルスポーツセンター、あ、あそこは今でも車でよく通る道 あ、あそこは… みたいに、やっぱりご当地映画というのは、一般の映画ファンとは楽しさが全く違う。
石川河川敷で “神宮寺岬” 先輩に映画出演をお願いするシーン、あと5メートル カメラが左にずれたら、イズミヤの巨大看板が見えちゃうで~ なんて思いながら、ハラハラするなんて、やっぱりないでしょ(笑)

この作品は、青春という疾風怒濤の季節の真っただ中にいる “鬼瓦ももか” や “蒼月蓮” が、自分とは一体何者なのか という自我の目覚めに対して、映画の制作という大きな課題をクリアしていく中で、自分なりの答えを見つけ出そうとする “こころのたび” なのである。
そして疾風怒濤と言えば、やはりブルーハーツか!?(笑) 実はこの「TRAIN-TRAIN」、いわし亭もバンドを組んでいた時、ドラムで演奏したことがあるんだよなぁ~ この元気いっぱいの楽曲とともに、音楽監督としてマジでブルーハーツのドラマーだった梶原徹也が参加してくれたことも大きい。実際、作中に登場する “鬼瓦りりか”(ももかの妹)の鬼ロックバンドの演奏は、連鎖劇『桃連鎖』の中の挿入歌も含めて、意外や意外! 良いのだ。
そしてこれは映画の中のお話なのだから当然のこと寓話であって、お話が都合よく進んでいくことに異議を唱えるのはルール違反である。これだけ分かりやすいストーリーをあえて曲解し、なおかつ一つ一つご丁寧に揚げ足取りに腐心している感想もあるようだが、それがどれだけ不毛なことか、いい加減気付いてもらいたいものだと思う。

『アナと雪の女王』のあのあまりにも有名な ♪ありのままの姿見せるのよ ありのままの自分になるの♪ というフレーズで、雪の女王であるエルサが自分自身を全肯定するところからドラマが始まるのは、この多様性の時代にあって、実にタイムリーであったとも言え、多くの人々の共感を得た。
他者に対する違和感は、アメリカンカトゥーンのスパイダーマンやキャプテンアメリカのようなヒーロー超人にとっても悩みの種であったし、それゆえマーベル シネマティック ユニバースの諸作品は単なるヒーローものに堕さない奥深さがあったのだ。
『鬼ガール』も “自分を好きになれたら、鬼に金棒やん” という惹句で、この文学的なテーマを見事に表現している。このテーマにド田舎(笑)奥河内(とはいえ、実家で生活していた頃、それほど不便さを感じたことはなかったのだが)で繰り広げられるドタバタ青春群像劇を絶妙にブレンドしたのがこの『鬼ガール』である。

昨今、同調圧力という言葉をよく見かける様になったが、自分と異なるものを排除しようとするこの集団における力学は、抑圧される側にとっては謎でしかなかった。昔話に登場する鬼がなぜ、排除されるべき存在であるのか? に対して昔話は明確な回答を用意していない。せいぜい、ちょっとした悪さをする という程度の理由だったろう。
これは古き良き西部劇に登場するインディアン(これ自体許しがたい呼称ではある)も同様で、彼らが害虫の様に駆除されるシーンにかつて白人の観客たちは何の疑問も抱かずに熱狂したのだ。あるいはローマ皇帝によるキリスト教徒の迫害、ナチスによるユダヤ人の大量虐殺もまた同様である。集団は集団としてのアイデンティティを守るために、生贄を必要とする。
実に象徴的なことに、クライマックスの連鎖劇『桃連鎖』の中でも、主人公の河内黒麿(神宮寺岬 先輩)は、幕府から鬼族殲滅の命を受けて奥河内に向かう。異物を排除して、その威信を万天下に轟かせるために、幕府は生贄を欲していたのだ。ドラマの後半、河内黒麿は鬼族の姫 鬼住さくら(鬼瓦ももか)と心が通じ合い、鬼族側に味方して、幕府軍を迎え撃つことになる。

作中、幼い “ももか” が母親に “どうして、鬼は退治されるん?” と質問するシーンがある。
“鬼が人と違うからや。人間ってのは弱い生き物でな、みんな同じでありたがるんや。だから、人と違う鬼は、のけものにしたがるんやな。でも、大丈夫や。お母さんは人間やけど、鬼のお父さんのこと、好きになったもん”
と、母親は答え、“ももか” の “なんで?” と続く問いに
“けど、一番はまあ、カッコ良かったからかなあ… 告白された時の鬼ドン… あれは惚れたなあ… お母さんはきっと、お父さんが鬼やから、好きになったんやと思うわ”
と実に明快な答えを返す。いかなるヘ理屈も凌駕するであろうこの説得力は、結局、多様性のあり方に関する一つの重要な示唆でもある。 

とはいえこの作品、ドタバタ青春群像劇の裏テーマとしては巨大に過ぎ、映画的な基礎体力がぜんぜん足りていない分、かなり荷が重い。文学的なテーマを内包する設定は素晴らしく、傑作誕生の可能性もあっただけに、作品が佳作レベルにとどまっているのは、非常に残念だ。
また、連鎖劇そのものは例えば、映像、生演奏、舞台を三位一体化した劇団★新感線の演目などでは、ごくごく普通に上演されているもので、特に目新しさは感じなかった。やや脱線するが、2013年に観劇した『ZIPANG PUNK~五右衛門ロック3』には、先だって亡くなった三浦春馬さんが客演しており、そのルックス、ダンス、歌、演技と、どこにも欠点が見つからない完璧さで、とんでもない俳優が出てきたものだと驚かされた。

撮影日程に関する記録を見ると、ドラマの進行とほぼほぼ同じ順番で撮影されていったようで、ドラマ導入部あたりでの主演 井頭愛海の演技は学芸会レベル、いわし亭は一体何を見せられているのだろう… と心細く見守っていたわけだが、なんとドラマ(撮影)が進むにつれて彼女、どんどん “ももか” にアジャストしていき、『桃連鎖』のクライマックスでは逆に奇跡! 的なシーンをモノにしていて 若さって 凄いナァ! と素直に感嘆させてくれる。

いわし亭の持論はモチロン “可愛いは正義” であり、可愛い女の子の最高の瞬間がフィルムに焼き付けられているだけで、その作品には存在価値があると断言する。これは、綾瀬はるか主演の『今夜、ロマンス劇場で』で、劇中のモノクロ映画『お転婆姫と三獣士』を繰り返し見続ける坂口健太郎演ずる映画監督志望の青年がプリンセス・美雪によせる思いと全く同じであり、映画ファンとは元来そういうものだろうと思う。その意味で、いわし亭にとって井頭愛海が演じる “鬼瓦ももか” もまた大切なキャラクターの一人として記憶された。

それにしても奥河内ムービープロジェクトという難しい企画をよくここまでまとめたな と関係者の苦労に思いが行く。映画というのはやはりお金のかかる事業であり、様々なアイディア、協賛、ボランティアで見事に乗り切った感はあって、見ていても、それぞれのシーンに資金不足で妥協した という感じがあまりしないのだ。それがまず、素直に驚きである。河内長野の歴史的な建造物や自然を配したそれぞれのシーンは、観光PR動画(河内長野市のサイトで実際に見れる)としても良く出来ているし、実際、澄み切った空気感が素晴らしい。まぁ、さすがにスターダストの肝いり(配給はスターダストピクチャーズ)だったということもある。

地方創生というと言葉の響きの心地よさに、とかく流されがちであるが、実際、実家に帰ってみるとけっこうな場所にポスターが貼られ、映画の中で登場したそば団子が市内の何店かの和菓子屋売られていて(行きつけの “和菓子千慕里庵” にもあったので購入してみたが、これ 癖になる味でこのまま定番商品になってほしいと思う)、ロケ地となった “そば博” は、まぁもともと人気店ではあったが、いわし亭のようなにわか客も含めてよく繁盛しており、それなりの地方創生になっているなぁ と実感。
また、作品の中でも、監督の “蒼月蓮” は、見た人を元気にする映画を撮りたいという言葉を繰り返すし、映画は見た人を元気にするだけでなく、関わった人全員を生き生きとさせる とも発言していて、これもまた地方創生の一つの形なのだろう と思う。
ただ、非常に残念な点は、『都構想の住民投票』(実際には、政令指定都市をやめたところで、法律上、都にはなれない)を目前に控えたこの時期に、「都構想推進」を掲げた日本維新の会副代表、大阪維新の会代表代行の吉村大阪府知事が本人役で登場することで、映画的なファンタジーを大幅に減衰させてしまう不適切なシーンだった。
今や世界的な映画監督になった “蒼月蓮” の父親 “蒼月忍” こそが、連鎖劇『桃連鎖』の原作者であり、“鬼瓦ももか” の父親 “鬼瓦大鉄” はカメラ担当、亡くなった母親 “ひとみ” は主演女優だった。二人が再会を祝して居酒屋で呑むシーンでは、“蒼月忍” に “映画監督って言ってもな、予算と時間とか、スポンサーとか、そういうのに振り回されて…” と言わせ、瀧川監督の苦しかった胸の内もチラリと見せている(苦笑)

“それでもあなたは、私のことを愛してくれますか? 私はあなたのことを愛しています”
“私もあなたを愛しています。心の底から!”
“ホントに? 私は鬼なんだよ? ホントに… ホントにいいの?”
“関係ない! おれは… 君が好きだ!”
“鬼のわたしと、一緒に生きてくれるの!?”
“ああ、生きよう! おれと一緒に生きてください!”

これは、本来、映画のクライマックスで “ももか” が演じる鬼族の姫 鬼住さくらと河内黒麿の会話なのだが、実際にこのシーンを撮影した “蒼月蓮” 監督の表情は冴えない。何かが違うと感じていて、他のスタッフの良かった という声にも決して納得していないのだ。そしてこれは、“ももか” も同様で、この長いドラマの間中、ずっと悶々とした思いを抱えてきたことは良く分かる。
“心が動いてから” セリフを言えていないのだ。字面をなぞっているだけで、実は本当に鬼の “ももか” には、このセリフが簡単には言えない。この “心が動いてから” 芝居をしてくださいという注文は、“蒼月忍” が演出中に発する言葉で、いい言葉だな と思った。
そして、この『桃連鎖』を上映する中で、本当に好きな人が誰なのか? はっきり分かった “ももか” の心が動き、映写機のコンセントを抜いて納得がいかなかったシーンの上映を止めて、舞台でそのシーンをリアルタイムで再現する。河内黒麿ではなく本当に好きな “蒼月蓮” を相手役に。この虚構とリアルが交錯し、シンクロする場面は、正に映画的表現であり、映画的な奇跡という感じがする。演目がライヴである連鎖劇の必然性も実はここにあった。

本当に好きな人が出来た時に、恐れることなく、その人に自分自身を嘘偽りなく、見せることが出来るのか? これは文学的なるものがその創造の初めから、最大のテーマとして抱えてきたものだ。”私の本当の正体は 鬼なんです” というセリフを、悩みに悩んで、やっと言えた “鬼瓦ももか” に島崎藤村『破戒』の “瀬川丑松” を重ね合わせることは簡単なことではあるが、その先は考えたい人が考えればいいのではないかと思う。
ここに提示されているのは、どこにでもある青春群像劇のバリエイションであり、もっと大きくて普遍的なことだと感じる。ありのままの自分を受け入れるということ~ それこそがこの多様性の時代にあって、それぞれの個人が、自分自身もお互いも、あるいは共同体が、社会が、まず最初に尊重すべきことなのだ。勇気を出して、自分が何者であるかを受け入れ、それを好きな人に伝えた“ももか”の美しい涙が全てを洗い流す。ここではその言葉だけで十分ではないか。

なお、本編とは関係ないが、最後に鬼瓦家の前の鬼住橋のところで家族全員~亡くなった “ひとみ” も帰ってきて で記念写真を撮るシーンがある。これが何とも、ほのぼのしていて良いのだ。家族というものを思い出させる懐かしさにあふれている。