わっせ

きまじめ楽隊のぼんやり戦争のわっせのレビュー・感想・評価

3.8
安易に戦争風刺、現代風刺として観るのは簡単だが、どうも映画以上に映画的破滅を迎えている現実に生きる身としては、もっと違うものに見える。
監督が、ひとりの個人、あるいは現実世界に生きる市民として、映画に風刺される現実に対してどう向き合っている(向き合っていこうとしている)のか、それがどう描かれているのかが重要なのではないか。
この映画のなかでは、ソクラテス的な問答が絶えず行われている。おそらくその発端は水戸というドロボーで、それは世間から理不尽(?)に爪弾きにされた存在である。セリフのほとんどが疑問文の彼は、絶えず「なぜ?」「どうして?」を繰り返すが、その問答の過程には答える人間の自己矛盾があらわれ、結末においては思考を放棄する。観ているわれわれはそれを滑稽なように思うが、人物たちには激しい葛藤がある。
片腕を失い、兵隊として生きていけなくなった藤間も同様だ。受付との無意味な問答を通して、その矛盾に気づく。そして前時代的な家父長制から爪弾きにされた女性とともに、町を出る。これは大変に象徴的で、「なぜ?」という疑問にたどりつくことが、この映画(あるいは監督の哲学)のひとつのゴールであることを示している。
露木は楽器をひとつのコミュニケーションツールとしている。この楽器とコミュニケーションという要素については、映画内で個人的にかなり裏切られたのだが、それはそれとして、なぜ楽器である必要があったのか、ちょっと疑問である。単純に自分がバカなだけかもしれない。芸術というものになにかの問いかけと答えを用意していたのだろうが、対岸の人が、ラストシーケンスの大砲と楽隊のシーンで、なにかを期待して登場してわかりやすく死んでくれたほうが好みだったかも。あのトランペットも寂寥感があったけど。
登場人物のなかで最も愚かなのは誰か? 愚かな人物はほとんど全員と言ってもいいが、やはり楽隊の隊長だろう。わかりやすく言論を封殺しようとする彼は、とてつもなく滑稽で、かつ恐ろしいものに映る。
総括として、かなりおもしろく観ていられた。現在に「なぜ?」を問い続ける人には勇気を、ぼんやりと生きるなかで不安を見出しつつある人にはヒントを与えてくれる映画だと感じた。
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