わっせ

ドライブ・マイ・カーのわっせのネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

映画に登場する「SAAB 900 turbo」はスウェーデンにかつてあったメーカーの自動車で、スウェーデンといえば、北欧のイメージに違わず、雪。この時点で登場人物の「足」と北海道の親和性が示唆されていたのかも。北で生まれた女と、北で生まれた自動車。それが北へと回帰していくのはごく自然に感じられる。

自動車の型式がたぶん初代であると仮定して、2.0Lターボ車である以上、車の発する音は大きく、当時の技術を察するに遮音性も高くないだろう。その車内で、「テープをかけてなにかを聴く(自らもしゃべる)」という、アンバランスさに、はじめはかなり抵抗があった。いくら大事にしている車とはいえ、あまりにも不都合が大きすぎないか、と。あと単純に西島秀俊けっこう飛ばすなあ、とも。「おれはターボの外車に乗ってるんだぞ」という役者の枠を越えた自己主張とも取れなくはない。笑

3ドアクーペで、車室も狭い。西島秀俊の体では屈んで乗り込み、後部座席も心持ち窮屈に思える。そこに男が並んで座るシーンがあり(ベストバウトに近いシーンだが)、いくら映画とはいえ大丈夫なのかなあと思った。自分が考えているより広いのかな?

しかし、その狭い空間を映画の空間にしてしまう技量と度胸には驚いた。むしろ車内は静寂で、そこに乗っている者たちの声と息遣い以外聞こえない。運転という行為は、まずエンジン音によって聴覚的に外と中とを分け、車窓によって視覚的に外を切り取り、中にいる人たちを区別する。「ちゃんと前見て運転して」という家福のモラハラ発言が、ここでなんか深い言葉のように思えてしまった。

こうしてみると、2.0Lターボの騒音と狭い車室がなければ、家福は外界から切り離れることができなかったのかな、と思わずにはいられない。「落ち着ける場所」を求めた家福が、狭くうるさいターボ車のなかを選んだ理由が、ここでようやく腑に落ちた。家福は車の中から外界と向き合い、同時にテープによって自己と向き合っている。当然この文章はテキトーに書いている。

車のシーンで言えばもう一つ。ドライバーの女(名前忘れたのでドライバーの女と呼ぶが)が、何度も唐突に自分の物語を語り始めるが、それは家福の妻がセックスのあとに行っていたことを想起させた。セックス→語りの行為の連続が、妻の死後は、運転→語りの連続になる。つまりセックス=運転と言いたいわけではなく(でもよく考えればセックスも周りの音聞こえなくなって視界も制限されるななどと思ったり)、濃密な時間のなかで生み出される言葉のパワーをかなり意図的に使っているなあと感じた。やっぱり車は最高だ。自動車税と維持費に目を瞑れば。

でも個人的ベストバウトは車内ではなく、ゴミ処理場。「雪みたいじゃないですか」が、急にドライバーの女に輪郭を与えた。ああいう場と言葉の選択は唸らされる。濱口竜介はこれからもトップであり続けるな、とその時に感じた。

もっとロードムービー的なものを想像していたが、いい意味で裏切られた。いい映画だった。助手席から車窓を眺めるように、スクリーンで流れていく画が心地よく感じられた。しかも、その車のドライバーの技量は極上である。


結論としては……運転はセックスです。
わっせ

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