わっせ

由宇子の天秤のわっせのネタバレレビュー・内容・結末

由宇子の天秤(2020年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

カロリーの高い映画。映画的忘却と陶酔の力をもってしても疲労感が先立つ。理由はこの映画の残酷さにあると思った。

手持ちのカメラでひたすらに顔、顔、顔。顔を撮るために寄るし、引くし、追うし、揺れる。どうしてこんな残酷なカットが切れるんだろう。映像における人物の顔は魔物だ、と改めて認識させられてしまった。人の顔って、怖いな。

特に塾内でのいくつかのシークエンスは、顔だらけ。高校生の顔、高校生に混じったふたりの大人の顔。貼られているポスターにだって顔がある。狭い空間にいったいどれだけの顔があるのか。ポスターはノーカンにしても、すごい数だ。

由宇子も顔にこだわるディレクターだ。インタビューを受ける遺族と由宇子のあいだに衝立が置かれていたとき、由宇子は怒り、「撮影はしないから私と顔を合わせてほしい」と頼む。あの現場のピリつきとカメラマンの「どーすんねん」顔は結構ツボだった。

由宇子がスマホの動画を向けるのは、すべて顔。最後も自分の顔を撮ろうとする。

終盤、メイへのプレゼントに由宇子が選んだのは、イヤリングである。ここでもやはり、由宇子は顔を選んだ。メイの顔がよく見えるように髪を整え、顔を映えさせるイヤリングをつける。見つめ合い、顔を合わせたふたりは、たしかに心が通ったように見えた。

と、このようにこの映画は顔ばかりなのだが、ここでひとつちょっとしと話をそらして、天秤のこと。天秤というと裁判や量刑のモチーフ、あるいは偏りの意味で使われたりするのだけど、天秤と剣を持つ正義の女神(テミス?ユースティティア?)は、法の下の平等という概念が生まれ始めたころから、目隠しをさせられるようになったらしい。この映画の天秤は「裁く」意味で用いられていないから、このへんの寓話はあんまり意味をなさないのかも。由宇子は目隠しと対極にいる人だし。

グダグダ書いてきたけど、顔以外撮らないというのは方針のように思えるし、潔かった。「顔ばっかで不自然かな」という常識とか、逃げの思考にとらわれない、ストイックで厳格なまでの哲学には心から拍手。すばらしい。

「私はどちらの側に立ちません。光を当てるだけです」というこの映画の大前提がある。それでも無理なんだよな、完全な中立に立つのは。塾講師として、ひとりの生徒に肩入れするのは間違いなはず。この人は中立には立てない。番組を作る哲学としての標榜に、実質は伴わない。そういう由宇子の人間的な青臭さが、この人をきちんとドキュメンタリーの監督にしている。由宇子は塾講師ではないのだ。ドキュメンタリーの監督なのだ。乗っている車はダサいけど。

残念なのは、メイの貧乏のディテール。家は汚い、各種料金は滞納してる、でもメイのスマホは最新のものだし、父に至っては車に乗っている。このあたりがややアンバランス。都市の貧乏が真っ先に手放すのが車なのではないか? 最後の最後で、メイの貧乏に説得力がなくなってしまった。

細かい点で言えば、ラスト、由宇子が突き飛ばされた背後にあるハイエース、「わ」ナンバー。完全にロケ車に見える。経費削減? ハイエースだけはやめてほしかった。もっとなんかあったろ…

序盤の録音。なんか変だったが、なにがあったのだろう。アフレコっぽかったが。

この映画のハイライトは……なんだろうな。このシーン!ってのが浮かばない。どれも平坦に残酷だったから。あえて挙げるなら……「チスジってなに?」のシーン。あの少女の無邪気さが、あまりにも残酷だった。

画面酔いするのでスクリーンで見たほうがいいです。

追記
時間が絶対にズレない腕時計の意味がついぞわからなかった。「100点をとったかつての自分を捨てた」のかなって思ったけど、それなら時間がズレないことの説明にならないし。
わっせ

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