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ボクたちはみんな大人になれなかったの8637のレビュー・感想・評価

4.3
時代を遡って描く事で浮かび上がる現状の残酷さに慄いたり、オザケンもうちょっと流れると思った...と落胆したりと、綺麗事すぎる映画が観れなかったのが残念ではある。そしてこの演出では、佐藤が空っぽな人間に見えてしまう。確かに2000年以後は、喪失感や過労の中でカルチャーセンスを失っていったのだろう。

しかしその中でも具現化されたものに関しては素晴らしかった。ラフォーレ原宿前の派手な人だかり、もう無いシネマライズなど。そんな特定の固有名詞や愛しの"彼女"に対しての「僕だけが感じられる特別な愛情」を客観的に観る2時間でもあった。

佐藤はきっと、主人公にはならない人だ。いつしか、そう感じさせる"普通"の人になってしまった。
でもその中でも、彩花と話していた「どうせいつかは忘れられるのに」論にとてつもなく共感した。この世は周期的にトレンドを変え、消費していく忘却社会なのに、なぜ爪痕を残そうとするのか。それを自分自身ずっと考えてきては、知らぬ間にテレビから消えた誰かの生活を勝手に心配していた。

"普通"から脱却したい。それを実現したら怒られる。それが"普通"。頑張りたかったあの頃にできた事を、身についた堕落で諦める現在。
僕は今日、学生証を忘れて追加料金込みの1800円でこの映画を観た。怯んですぐにお金を払った僕も僕だ。その上で、これが大人の冷たさというものなのかと思っている自分は将来、大人になれるのだろうか。

例えば、僕と僕の今好きな人が、将来ラブホテルで落ち合っているシーンを想像できない。それは若さ故に。つまり誰もが信仰の対象とした"彼女"は、それなりの年齢の時に偶然出会った異性の一人なのかもしれないという事。
かおりやスーはとても良い女性像として映っていたが、彼女たちは男性の"理想"に合わせて振る舞ってくれていたのだろうと考えると恐ろしくなる。

先読みさせ高揚感を煽ったテロップ、僕には無意味に感じたあの画角変化。CM・MVを主戦場としてきた森監督の良いとこも悪いとこも出た演出だったが、僕はそれを好んで劇場まで観に来たし、それらはクライマックスで腑に落ちる。


2020年。街は栄えた後、一旦活気を失っている。小沢健二が「彗星」で歌った明るい近未来とは何かかけ離れた年になってしまった。
佐藤は、今のオザケンをどう思っているのだろう。他人事なのだろうか。

僕自身が小沢健二を大好きだからこそ使用楽曲の少なさに呆れているわけだが。初めは父との車の中で「ラブリー」「愛し愛されて生きるのさ」から始まり、自分の音楽遍歴がたどり着いた先は「東京恋愛専科」。そして今日「天使たちのシーン」「暗闇から手をのばせ」。今、近所のTSUTAYAにもApple StoreにもSpotifyにも「犬は吠えるがキャラバンは進む」がなく、この映画で流れていた音楽を手軽に楽しめなくなってしまった。あの時代に生きていたらば容易に入手できたはずだ。そう考えた時、彼らのことを羨ましく思う事もある。でもその時代に人生の全盛期を生きた彼らは、私達が見られる"未来"を見られぬまま死ぬ可能性が高い。
どの90's懐古映画を観てもいつもオザケンが重要なカルチャーとして登場するので、相当な話題性を持った音楽家なんだなという事を改めて感じる。その中でこの映画が他と違ったのは、オザケンを「昔の人」と割り切らない所だ。

この流れでもう一つ言いたいのは、やはり僕の大好きなキリンジがカルチャー史に残す、隠れた影響力についてだ。原作者は馬の骨名義の「燃え殻」からペンネームを拝借し、森山未來はこの曲を最後に流したいと思っていた。エンドロールの朝焼けが映えたのはまさしくこの抒情的な曲のおかげだった。もう十数年前の曲にもかかわらず、今改めて世に出る。


ボクたちはみんな大人に_
そのメッセージは酷くあざとく、現実のイメージを掻っ攫っていく。傑作。
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