456京都公式

シン・仮面ライダーの456京都公式のレビュー・感想・評価

シン・仮面ライダー(2023年製作の映画)
5.0
この作品は気とカラダの映画。
そもそもプラーナとは「気」のこと。詳しくは語り切れないが、東洋医学でいうカラダを動かす根源的エネルギー。
オリジナル版では大野剣友会がアクション、つまりカラダによって気持ちや感情を表現していた。
ところが今作では冗長な説明セリフでそれを賄おうとしていた。まったく良くないぜ。
ところが緑川ルリ子の説明セリフが聞き取りにくくてこっちは理解できない。彼女がしょっちゅう気絶するのは、手塚治虫のキャラクター花輪さんのオマージュなんてのはもちろん嘘だけど、とにかくルリ子さんが邪魔だった。
ところで、ルリ子さんがあの見た目と髪型と衣装で「博士」とか「組織」とか言ってるのは、灰原哀のオマージュだとかうっかり真顔で発言しそうになったけど、これはむしろあっちが緑川ルリ子のオマージュだったりするのかしら?
緑川ルリ子の友達なのがヒロミなのは笑ってしまったしまったようこ。ヒロミは左の鼻の穴が大きすぎて、デカい黒豆が詰まっているようだった。あれはきっと梅垣義明氏のオマージュというのも嘘だけど、キルビルみたいなチャンバラをCGでやるぐらいなら、鼻から黒豆を飛ばして欲しかった(それよりもし彼女の真っ黒な鼻が「仮面ノリダー」のオマージュならそのほうがおさまりがよろしい)。
ほかのCGも動きと遠近感がなくて、紙芝居や人形劇みたいだった。たしかにオリジナル旧1号ライダーのかまきり男の回でもそんな変身シーンがあったし、庵野秀明氏は「キューティーハニー」でも同じようなことやってたけど、それよりはるかにチープだった。これは平成ライダーのアギトがスライダーモードのバイクに乗る合成シーンのオマージュ、というのもやっぱり嘘でごめんなさい。
冒頭の三栄土木のシーンが明るくて、クライマックスが暗いMAX。ストーリーの構成からすると逆ですよね、普通。オリジナル旧1号版を室内アンテナの白黒テレビで観ていたアタクシでも、当時は子どもの視力と柔らかアタマだったから、何が起こっているのかなんとか理解できてたけど、今や老眼鏡をかけて真っ黒なスクリーンをいくら睨んでも情報は入ってきません。ちょっと寝そうになっちゃった。ちなみに幼稚園で仮面ライダーごっこをしてたころ、言い出しっぺがライダーをするんだけど、残りのガキたちは偽ライダーの取り合いだったのよ。これは本当。それぐらいショッカーライダーとの対戦は重要なシークエンスなのに残念すぎました。
多様性を受け入れる時代になって、正義と悪との二元論を描きにくくなってるのはわかります。でも石ノ森作品をリスペクトするなら、あえてそこに軸足を置いておいて欲しかった。もともと仮面ライダーは悪の秘密結社によって作られた「ダークヒーロー」「アンチヒーロー」なんだから。これでは本郷猛は多様性の犠牲者じゃねーか。嘘ですけど、実写版リトルマーメイドの先取りオマージュですわ。
「シン・ウルトラマン」の感想をここで書いたときに、キリスト教的だって書いたのだけど、本作はとても仏教色が強かったです。「シン・ウルトラマン」は原罪を意識したような人間ドラマでしたが、今回は過去の苦しみからどう逃れるか、というテーマが貫かれていましたし、ラスボスがチョウオーグなのも象徴的。仏教における蝶々は、魂を極楽浄土に運んでくれる存在ですからね。そしてチョウオーグは、初代が亡くなったあとに二代目ミスワカナを継いだミヤコ蝶々のオマージュ、なわけがありませんね。
おそらく本郷ライダーの左脚があっち向いてしまったシーンは、実際に藤岡弘氏が撮影中に左大腿を粉砕骨折したエピソードのオマージュだろうけど(これはホンマ)、それをおそらくプラーナで治すくだりも、気がカラダをコントロールしているという意味ですよね。
というわけで、この映画は仏教(とりわけ密教)の、大気を吸い込んでカラダの内部に充満させ、さらに循環させることで人間のカラダを内側から満たし、賦活する生命力としての勢力や元気を与えている、もしくは人間を活かしているものがまさに「気」であるという考え方に基づいた「気」と「カラダ」の映画でありました。