うえびん

ベネデッタのうえびんのレビュー・感想・評価

ベネデッタ(2021年製作の映画)
4.0
神への愛か
自己愛か

2021年 フランス/オランダ作品

舞台は17世紀のイタリア・トスカーナ地方・ぺシアの街。日本は江戸時代初期。本作に描かれる庶民の暮らしぶりは、日本の方が豊かだったように感じられるが、実際はどうだったのだろう。

『「宗教」で読み解く世界史』(宇山卓栄・著)

▶教会や聖職者の権力の源泉

ヨーロッパ中世において教皇や聖職者は宗教世界だけに留まらず、世俗世界に対しても支配権をもちました。ヨーロッパの各地域で徴税権を握り、地方政治を取り仕切り、軍隊をもコントロールしたのです。

聖職者がなぜ、そのような世俗的な力をもち得たのでしょうか。一言で言えば、聖職者に信用があったからです。神が絶対であった中世において、聖職者の判断が求められ、聖職者が認めたもののみが正統性をもち、それを中心として物事が回りました。

中世の時代、人間の叡智よりも神の叡智が優先され、神学上の解釈は法をはじめ、政治制度、商習慣など、あらゆる分野に大きな影響を与えました。中世の神学は宗教上の範囲内に留まるものでなく、神学上の聖書解釈が神定法として、世俗法に直接反映されました。たとえば、ある1つの民事上の争いを裁くにあたり、聖書にはどう書かれているかを参考にして、法解釈をしていくといった具合です。つまり、聖職者や神学者は法を司る裁判官でもあったのです。

近代ヨーロッパの法律は、中世の時代の神定法を基礎として、生まれたものです。そのため、ヨーロッパの近代法において、民法、刑法はもちろん、商法に至るまで、とくに罰則などの倫理規範を要するものに関し、キリスト教の倫理基準が隅々に反映されています。

日本は明治維新後、フランスやドイツの法律をもち帰り、それをほとんどそのまま、自国の法律としました。明治時代に制定された法文は、とくに民法などで、今日の現行法として継承されています。このような事実から、われわれ日本人も、知らずしらず、キリスト教の倫理観に大きな影響を受けています。


聖職者のもつ世俗的な力。神定法、キリスト教の倫理基準が反映された裁き。「“痛み”が神への道」。一神教をルーツとしない日本人には、唯一絶対神をベースとした思想や社会の成り立ちは理解が及ばない。だからこそ興味も惹かれる。

聖痕(奇跡)によって、神の叡智を体現するベネデッタと、(世俗的な力で)神の代弁者を主張する教会の聖職者との闘いはスリリングで見応えがあった。

また、これも日本人には理解が及びにくい“愛”についても考えさせられた。

『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎/大澤真幸・共著)

▶愛と律法の関係

大澤)教科書的なことを確認しておくと、イエスは、律法を廃棄して、それを愛に置き換えた。ただ、律法を単純に否定し、排除したというより、むしろ、愛こそが律法の成就だということになっています。(中略)

その愛のことを、「隣人愛」という。「隣人」と聞くと、身近で親しい人のことだと思うかもしれませんが、そうではない。罪深い人とかダメな人とかよそ者とか嫌な奴、そういう者こそが、「隣人」の典型として念頭におかれていて、彼らをこそ愛さなくてはならない。だから、イエスは、自分に着いてくる者は、父や母や妻や自分の命までも憎まなければならない、とまで言っています。身近な人を赤の他人より優先することは、ほんとうの隣人愛ではない。

さて、何度ものべてきたように、キリスト教の特徴は、二段ロケットのようになっていることです。キリスト教は、ユダヤ教の部分を克服しつつ、それを内部に残している。律法の廃棄が言われながら、律法の部分が(旧約聖書のかたちで)きっちりと保存されている。

ここでぼくが疑問に思うのは、どうして律法の部分が保存されているのか、ということです。神の観点からこの疑問を言い換えると、愛が重要であるというのならば、神は、どうして、いきなり愛を説かなかったのか、となります。

神は、まず、モーセを通じて律法を与えた。しかし、人間は、律法を完全には守ることができない。あるいは逆に、パリサイ派みたいに、律法に強迫的にこだわりすぎて、律法を守ること自体を自己目的化する人が出てくる。そこで、律法を廃棄するわけですが、それならば、最初から「愛」だけでよかったのではないか。なぜ、神は、「律法」を通じて人間を十分に苦境に追い込んでから、「愛」を出してきたのか。(中略)

橋爪)愛は、律法がかたちを変えたものなんですよ。

大澤)そう考えざるを得ないですね。

橋爪)共通点がある。愛も律法も、どちらも神の人間との応答である。そして、神と人間との関係を設定する契約でもある。神と人間との関係を、正しくしようとする努力なんです。

契約は、そのままなら、律法(法律)になるでしょう。法律になるんだけど、イエスはそれを、ほとんど中身ゼロにしてしまった。パリサイ派の学者がやってきて、質問した。「イエスさん、あなたは律法に詳しいが、あんなにたくさんあるモーセの律法で大事なものはどれでしょう」。イエスは答えて、「第一は、心をこめて、あなたの主である神を愛しなさい。第二は、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。律法はこの二つに尽きている」とのべた。たくさんあった律法が、たった二条になってしまった。しかも、両方とも、愛なのです。

律法(たとえば、姦淫してはならない)は、守れたかどうか、規準があってはっきりわかる。それに対して、愛は、規準がないから、どうすれば愛したことになるのか、これで十分ということがない。律法としては、空っぽです。それでも、愛を、神と人間との契約だと考え、もとの律法の枠組みを残した。それはキリスト教が、神が人間と契約を結んだときの動機を大事にしたからだと思います。


ベネデッタのバルトロメアに対する愛は、最初はイエスの言う「隣人愛」であったのだろう。その神への愛は、聖愛となり、愛欲となり、自己愛となり、「隣人愛」から遠のいてしまったのだろうか。彼女の生き方は、神と人間との契約(愛)に反するものであったのだろうか。

「すべて神のおこない」としてしまえば、個人の選択も判断も、そのすべてを自己正当化の理由に出来てしまう。果たして、彼女は、聖女だったのか、悪女だったのか…。いや、そのどちらでもない“人間”だったんだろう。

実在した一人の修道女(人間)の生涯を通じて、教会組織の強いヒエラルキー、キリスト教原理主義の非寛容と理不尽さ、女性だけの社会である修道院の閉鎖性、不自然さ…など、いろんな側面を観ることができた。キリスト教について少し理解が深まった気がする。
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