サマセット7

ブレードランナー ファイナル・カットのサマセット7のレビュー・感想・評価

4.8
監督は「エイリアン」「グラディエーター」のリドリー・スコット。
主演は「スターウォーズ」シリーズ、「インディジョーンズ」シリーズのハリソン・フォード。
原作はフィリップ・K・ディックの小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」。

[あらすじ]
近未来(2019年)のロサンゼルス。
バイオ工学により作られ、人間と寸分変わらない見た目と高い能力をもつレプリカントが奴隷として植民星での労働に従事させられている時代。
レプリカント狩りの殺し屋「ブレードランナー」を引退した男デッカード(ハリソン・フォード)は、当局から、地球に潜入した4人のレプリカントを狩るミッションを、半ば強制的に引き受けさせられる。
デッカードは、レプリカントを造った巨大企業タイレル社を訪れ、そこで謎めいた美女レイチェル(ショーン・ヤング)と出会うが…。

[情報]
サー・リドリー・スコットの代表作にして、1982年の公開以降、SFにおける未来世界の映像表現を決定的に変えてしまった、と評される、正真正銘のカルト・ムービー。

原作小説は、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」である。
今作は、ディック作品の初めての映画化となった。
ディック自身は、今作の公開直前に亡くなっている。
ディック作品(スキャナーダークリー、トータルリコール、マイノリティリポートなど)は、今作以降、次々と映像化されることになる。

原作小説は、バウンティハンター(賞金稼ぎ)のデッカードが、家族に電気羊ではない本物の羊をプレゼントするために、賞金がついたアンドロイドを狩っていくが、徐々にアンドロイドたちが人間とほとんど変わらないことを知り、倫理的な葛藤にさらされる、というものである。
人間とは何か、自分とは何か、という点が大きなテーマとなっている。
作中の未来世界では、安価な人造の動物ではなく、本物の動物を飼育することが一つのステータスとなっている、という設定があり、タイトルにつながっている。

今作では、原作小説の設定やストーリーは大幅に改変されており、原型をとどめていない。
原作で、デッカードの動機であった「羊」には、映画では一切触れらないし、そもそも映画のデッカードには家族はいない、一匹狼である(妻とは離婚した、という設定がある)。

まず、ディックの原作小説を、映画脚本に落とし込む作業に取り組んだ脚本家のハンプトン・ファンチャーは、原作のいくつかの設定を省略し、代わりに、「未来世界のフィルム・ノワール」という語り口を持ち込んだ。
具体的には、主人公のデッカードを、ディック的な葛藤に悩む小人物としてではなく、往年のハードボイルドの主人公のような存在として描いた。
参考としたのは、レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説やその映画化作品の主人公「フィリップ・マーロウ」であるとされる。
作品舞台も、ディックのホームタウンで原作の舞台でもあるサンフランシスコから、フィリップ・マーロウの本拠地ロサンゼルスに変更された。

この一次脚本に興味を抱いたのが、リドリー・スコット監督であったが、彼が興味を示したのは、ディックの原作ではなく、「未来のフィリップ・マーロウ」というアイデアの方であった。
リドリー・スコットは、ファンチャーの脚本からイメージを膨らませ、「猥雑として退廃した近未来都市」というスタイルを構築した。
リドリー・スコットは、フランスの漫画バンド・デシネの漫画家メビウスの短編「ロングトゥモロー」の描く都市のデザインを参照した、とされる。

この未来都市のデザインは、後のあらゆるSF作品やデザインワーク全般に、非常に大きな影響を与えた、と言われる。

結局、ファンチャーはスコット監督との意見の対立により降板し、デヴィッド・ピープルズが脚本を改稿して、最終稿となった。
ただ、試写から公開までにも変遷があり、公開後もディレクターズカットやファイナルカット版など、広く公開されているバージョンだけでも4つに及ぶ。
試写なども含めると7つのバージョンがあるらしい。
大きく分けて、デッカードの独白からなるナレーションを含む劇場公開オリジナルバージョンと、リドリー・スコットの意向を汲んでナレーションを削除し、シーンを追加したディレクターズカットの2つがよく知られているだろうか。
私が鑑賞したのは、ディレクターズカットをさらにリマスターした、ファイナルカット、というバージョンである。

今作は、80年代という時代を色濃く反映した作品である。
ポストモダニズム。
アジア系を中心とする非白人移民のアメリカへの流入。
日本の高度経済成長に対する、アメリカの深刻な危機感。
環境問題などにより、「クリーンで明るい社会」が想像し難いことへの、諦観。
広告その他商業主義の洗練と拡大。
リドリー・スコットは、時代の空気を余さず近未来都市の中に映像化して見せる。

今作は、色々と瑕疵のある映画で、一周して作品の味になっている。
有名なのが、作中で説明される逃亡したレプリカントの人数で、6人が逃げ、1人が死んで、残り4人。
計算が合わない!!
あとは、2019年という時代設定と、レプリカントの寿命年数の整合性など、妙な計算ミスが見られる。

今作は、2800万ドルの製作費で作られ、興収は4100万ドル超。
興行的には、失敗に終わった、と言って良い。
公開当初の批評的な評価も賛否が分かれた。
しかし、VHSの普及により年を経るごとに評価を増し、現在では、最も影響力のあるSF映画の一つとみなされている。

[見どころ]
今観ても色褪せることない、退廃的な未来都市像!
夜!酸性雨!霧!スモーク!サーチライト!!
溢れるオリエンタリズム!
強力わかもと!「ふたつで十分ですよ」by日本語!新宿歌舞伎町にインスパイアされたネオン!!
リドリー・スコットお得意の光と影の演出!
動物!雑踏!屋台!スピナー!ブラスター!!
多様な言語使い!
ヴァンゲリスによる音源!!
キャラクターたちの、一度見たら忘れられない、独特の言動!
とにかく名シーンが多すぎる!
バッティ!レイチェル!プリス!!
リオン!セバスチャン!ゾーラ!
冷血非情なブレードランナーと、生に執着するレプリカントの対比が描き出す、「人間とは何か」という哲学的なテーマ性!

[感想]
何度目かの鑑賞。
今回の感想は、「この光と影の使い方、リドスコっぽいー!!!」であった。
そして、今作がカルト的傑作と扱われている理由と、公開当時、興行的に失敗した理由を再確認した。

私なりに今作の特徴を整理すると、以下のとおりとなる。
1つ。圧倒的な、近未来都市像。
2つ。5人のレプリカントたちの非人間性と人間性を両方印象的に活写している点。
3つ。人間性に関する哲学的テーマ。
そして、4つ。ブレードランナー、デッカードのクズっぷり、である。

今作のカルト的傑作たる所以は、上3つにあろう。
2度と忘れられないシーンが目白押しだ。
冒頭の街の光と噴き上がる炎!
ネオンと雨の猥雑な都市風景!
映写される芸者!!
屋台での日本語のやりとり!
漂ういかがわしさ!!
聳え立つ墳墓のような巨大企業の建造物!!
今作の主人公は、ある意味で、都市そのものだろう。

そんな世界で必死に足掻くキャラクターたち!
女性レプリカント、プリスのくるくる回る動き!
レプリカントのリーダー、バッティの、狼を思わせる雄叫びと走り!!!
レイチェルとタバコの煙!!!
いずれも網膜に焼き付いて、離れない。

他方で、今作の主人公デッカードの言動の酷薄さは、逆の意味で印象的である。
ハリソン・フォードのイメージで、ハン・ソロやインディ・ジョーンズを期待して映画館に出向いた観客が、呆気に取られたであろうことは想像に難くない。
デッカードは、当局に命じられるまま、葛藤を抱く様子もなく、機械のようにレプリカントを始末し続ける。
特に、逃げるゾーラを後ろから銃撃するシーンの惨たらしさ!!!
個人的に、今作で一番印象的なシーンだ。
どう考えても、ハリウッド的なヒーローに許容される行動ではない。
今作のデッカードは他者に対する共感性を欠いており、観客による共感も冷たく拒絶している。
レプリカント側の事情に歩み寄ろうとする姿勢も、何らかの成長も、意識の変容すら見受けられない。
レイチェルとの関係性も、今見ると疑問だらけだ。
ここまでアンチヒーローな主人公も珍しいのではないか。
それゆえ、デッカードの立ち回りに、ヒーロー映画的なカタルシスは、一切ない。
あるのは、気まずい陰鬱さだけだ。
にも関わらず、観客は、今作の未来都市の風景の数々を、彼の視点で受け取らざるを得ない。
この構成には、作り手の「お前こそが、デッカードだ」という冷たい悪意のようなものさえ感じられる。
今作が、E.T.やスターウォーズを見慣れたメイン観客層のほとんどを振り落としたのは必然であったろう。

ストーリーは終盤、デッカードとバッティの対決に収斂する。
バッティは生命の奔流のように獣性を顕にし、狩るものと狩られるものは反転する。
一連のシーンはSFホラーの趣きもある。
そして、対決の行き着く先に待ち受ける、結末!!

ラストシーンは、バージョン毎に異なるようだ。
リドリー・スコット肝入りのファイナルカット版だと、ラストシーンが同版の追加シーンと合わさって、デッカードに関するある一つの結論を示唆するが、解釈は観客に委ねられる。
この辺りの考察を許容するオープンな作りも、今作のカルト的人気の一因だろう。

[テーマ考]
今作は、多層的な作品で、テーマも様々に読み取れる懐の広さがある。

とはいえ一つ挙げるなら、人間とは何か、人間性とは何か、になろうか。
人造生命であるレプリカントが、生に執着して足掻く姿は、本質として人間そのものである。
今作がフランケンシュタインの怪物の変奏と言われる所以であろう。
他方で、デッカードをはじめとする当局側の人間の、巨大な機構の歯車として作動する酷薄さは、昆虫的でもあり、ナチズムや全体主義を思い起こさせる。
人ならぬものの見せる人間性と、ヒトの見せる非人間性の対比は見事だ。
デッカードの娯楽作品の主人公にあるまじきクズっぷりは、このテーマに照らして初めて理解できる。

バッティの最後の決闘で見せる姿や、指を折られたデッカードの見せる感情の揺らぎに照らせば、人間性とは、死や痛みとの関係で明らかになるもの、と言えるかもしれない。
逆に言えば、死や痛みを感じない安逸の中で、社会の大きな歯車の中で半ば自動的に動いているモノは、果たして、真の意味で人間と言えるのだろうか?

今作の描く暗鬱とした未来像は、冷たくヒトの将来の限界を予告する。
では、ヒトに未来はないのか?
デッカードとレイチェルの顛末は、一つのサンプルになるかもしれない。
あるいは、バッティの生き様はヒントになるだろう。
どんな残酷な未来が待っていようとも、あるいは、過酷な過去に疲れ果てようとも、人はその日その日を、精一杯生きるしかないのだ。

[まとめ]
リドリー・スコット監督の代表作たるカルト・ムービーにして、20世紀SF映画の金字塔的傑作。

今作で好きなシーンは色々あって数え切れないが、ベストは、微動だにせずデッカードを待ち伏せするプリス、である。
一度見たら忘れられない、とは、こういうシーンのことを言うのであろう。