ずどこんちょ

余命10年のずどこんちょのレビュー・感想・評価

余命10年(2022年製作の映画)
3.9
残りの人生を精一杯生きる。
自分の死を受け入れるということが、まだ若すぎる彼女にとってどれほど苦しく、辛い決断だったことか。その上で、残りの人生をしっかり生きようとした彼女の姿はとても強いと思いました。

「余命10年」って最初に聞いた時、茉莉と同じように、余命宣告を受けてあと10年あるなら長いような短いような…と曖昧な理解だったのです。
こういう余命宣告ものは大抵、あと1年とか、あと数ヶ月とかで、10年あったら色々できちゃうんじゃないか、と。

しかし、実際は10年という時間がこのような体感で感じさせると分かっていませんでした。
彼女は自分が長くは生きる事ができないと知りながら、毎日毎日健康管理を続け、投薬を続けています。運動することもできないから友達と海へ行っても自由に遊び回ることはできない、旅行にも好き勝手には行けません。友人たちがスノボへ遊びに行っている動画を茉莉はベッドで呼吸器をつけながら眺めることしかできません。
飲み会へ行ってもお酒は飲めず、病気のことがあるから仕事も簡単には見つかりませんでした。
10年あれば色々できるというのは誤解でしかなかったのです。生きながらえるために様々な制約を守り、様々なことを諦めながら彼女は過ごしてきました。

恋愛もまた同じです。
余命わずかな間に、新しい恋を見つけてしまったら、また死ぬのが怖くなってしまう。冒頭、茉莉が同じ病室のとある患者から、息子の入学式を目にして死にたくなくなったという話を聞かされたように、新しい幸せを掴む事が茉莉にとってはせっかく受け入れた死を再び拒みたくなるという恐れでもあるのです。

だから彼女は和人との恋を成就させることも諦めてきました。
幸せは目の前にあるのに、その幸せに手を伸ばすことは許されていないと自らを律して目を背けてきたのです。それがどれほど辛かったことか。どれほど苦しかったことか。
恋愛を諦め、自暴自棄な気持ちになった時、茉莉は塩分管理を無視して暴飲暴食をします。どこかで我に帰ったのか、体が拒絶したのか、次の瞬間にはそれを吐き出すしかありませんでした。
諦め続け、手放し続けていくことが、茉莉にとっての余命10年だったのです。

そんな茉莉が数少なくどうしても手を伸ばしたくなったのが、和人との恋と、自身の境遇を重ねた小説の執筆でした。
それだけは人生においてやり残したくなかったのでしょう。
ところが、和人との恋はいずれは終わらせなければならなかった恋でした。プロポーズを受けた翌朝、茉莉は和人に真実を話し、その恋に自ら終止符を打ちます。

困惑して真実を受け入れられない和人に、死ぬまでの準備をさせてほしいとお願いする茉莉。泣き崩れて受け入れる和人を置いて、茉莉は自宅へ帰ります。
帰宅してすぐ、母親に「死にたくない」と大泣きしたシーンはとても切なかったです。
本当はそれが本音なのです。普段は自分の病気は治らない、病と戦うのを辞めたのではなくて戦えない、と強い言葉で家族の前で気丈に振る舞っている茉莉ですが、本当は死ぬことはやはり受け入れ難いことなのです。もっと生きて、もっと幸せになりたい。なぜ自分が死ななければならないのか。
娘の苦しい声をすべて受け止めて聞いてくれる両親の涙する姿は、とても悲しかったです。

和人と茉莉の出会いは、同窓会でのことでした。
長い入院生活から退院した茉莉が久々に同窓会で昔の友達たちと再会した時、和人と出会いました。
色々な事があって人生に絶望していた和人は、久しぶりに楽しく過ごしたその翌日、自殺未遂を図ります。
和人の自分の命を軽んじる態度に腹が立った茉莉は、和人に怒りをぶつけます。そのことがきっかけで和人はもう一度人生をやり直すために立ち上がるのです。

長い時をかけて死を受け入れたつもりでもやはりまだ受け止めきれない茉莉にとって、死を簡単に選択した和人のことは許せなかったことでしょう。
しかし同時に今度は、生きることを決意した和人と関わっていくことで、一度は死を受け入れたつもりになっていた茉莉も再び生きることに執着するようになったとも言えます。
様々なことを諦めることが自分の人生だと感じていた茉莉にとって、残りの人生を生きる意味を作り出してくれたのは、自分が命を救った和人だったのです。

彼を苦しめないように別れを決意したのでしょうが、和人との時間は幸せだったことは彼女が執筆した小説からも伝わってきます。
最後の最後まで後悔のない人生を歩むことはできた。和人のことを大切に思っている気持ちを失うことなく、彼女は人生をまっとうしたのだと思います。

藤井監督が描く茉莉の余命では、春夏秋冬の季節の移ろいをとても美しく感じさせてくれます。
桜の花びらが散るところから始まり、日本らしい四季折々の自然の姿や行事が描かれます。
それらは決して合成などではなく、実際のそれぞれの季節に撮影されたものなのだそうです。
ほんの一瞬の花火大会や、ほんの一瞬の秋の並木道のシーンもすべて本物で、四季の息吹の中で一年かけて撮影が行われたそうです。
本作ではそれだけ季節の移ろいを大事にしていたということでしょう。季節が移ろうということは、少しずつ死期が迫るということでもあり、それは同時に、残り少ない季節の変化を全身で浴びて、生きていることに全身で感動を覚えるということなのだと思います。
まるで消えかかっていた命の灯火を再び輝かせているかのよう。
本作において季節の変化は、登場人物たちと同じぐらい重要な要素として彼女の心情を表現してくれていたと思います。

茉莉の体感を表現するかのように四季があっという間に過ぎ去っていく中で、RADWIMPSの劇伴音楽が流れるのですが、それもまた美しい戦慄で心にじんわりと沁みていきました。

もはや死期が近づいた時、茉莉はこれまで撮り溜めていたビデオ録画の記録を一つずつ消去していきます。自分の人生を整理するかのように、一つずつ最後に見ながら消していく記録。
意識が遠のく中で茉莉が見た夢は、彼女がこの先も願っていた未来でした。「もっと生きたい」と願っていた、ありきたりな日常です。このシーンは本作で最も心を掴まされました。号泣してしまいました。
普通に走り回って和人と遊び、行きたかったスカイツリーにも登り、無事に二人は結婚し、子供が産まれて、子供を育てるという、ありきたりだけど幸せな未来。
10年経ったその先も、あったかもしれない未来。

もっと生きたいと口にする言葉も胸に刺さりますが、そんな彼女が願っていた未来の幸せというものを見せられるとこんなにも胸が苦しくなるとは。
そのどれもが、決して高望みするわけでもない幸福なのです。もしかすると健康な人たちは見逃しているかもしれない幸せなのです。

健康に人生を歩み、普通にライフステージが変わっていくということが、どれほど愛おしいことであるかを改めて感じさせる、茉莉の夢。
そしてそれは同時に、本作のエンドロール前にも流れていたように、「余命10年」の原作者であり、既に2017年に他界された小坂流加さんが願っていた夢でもあるのだと感じました。