ずどこんちょ

ゴジラのずどこんちょのレビュー・感想・評価

ゴジラ(1954年製作の映画)
3.8
これが、伝説の始まり。
これが、世界を代表する日本の"ゴジラ"の第一歩目。そしてこれが、日本の怪獣映画の原点でもあります。
あらゆる面で時代を作り出した名作です。

先日、山崎貴監督の『ゴジラ-1.0』が第96回アカデミー賞でアジア初の視覚効果賞を受賞しました。
日本の怪獣映画の原点となる「ゴジラ」シリーズの最新作かつ生誕70周年のアニバーサリー作品において、世界的に評価され、歴史に名を残すことになるという大きな偉業です。
このタイミングだからこそ、その原点に立ち返りました。時は1954年、まだ戦後10年も経ってない頃の作品です。

船舶が次々に沈没する事故が発生。自体の全容が掴めない中、今度は沖合にある大戸島という小さな島に巨大生物が姿を現します。
大戸島の古来からある伝説から「ゴジラ」と名付けられたその生物は、やがて東京に向かって上陸を始めるのです。

監督は本田猪四郎、特殊技術担当に名を並べるのは、あの円谷英二です。そもそも彼がいたからこそ、「ゴジラ」は実現に向けて動き出しました。

俳優陣は古生物学者の山根博士を演じた志村喬なども安定した存在感を感じるのですが、なんといっても若き宝田明が初主演を飾った初々しい演技が魅力的です。
当時まだ特撮作品に対する経験値は俳優陣にも多くなかったらしく、そもそも未知の怪獣ゴジラを想像することすら困難だったようです。今のようにその場でCG合成してイメージを湧かせることもできません。
そこには存在していないけれども、50メートルもある大怪獣を見上げながら演技をするというのは、きっとかなりの想像力を駆使したことと思います。

また、昔の映画にありがちな冗長なシーンなどはなく、思いの外、テンポ良くシーンが展開されていたことには驚きました。70年経った今の感覚で見ても、決して退屈しないスピーディな怪獣映画です。
海での異変、大戸島の災害、国全体への社会問題化と、次々に事態が拡大していきます。
加えて、思っていたよりも町の破壊シーンが多いのも興奮しました。この当時の技術だからそれほど破壊シーンはないものかと思っていましたが、精巧に作られたミニチュアは惜しげもなく破壊され、特殊技術によって、あの手この手でふんだんに建物破壊を演出してくれます。
何も知らずに町に近づく電車はゴジラに踏み潰され、ネオン輝く銀座の町は徹底的に破壊されます。
実に圧巻のゴジラの破壊シーンですが、きっと戦後10年と経たない当時は心から戦慄する場面だったのではないでしょうか。

ゴジラは海からやって来ます。
ゴジラはジュラ紀の生き残りです。海底に安住して生き延びていたところを度重なる水爆実験によって安住の地を破壊されたため、姿を現し始めました。
更にゴジラは放射能を存分に浴びているため、彼が歩く先々は放射能汚染がもたらされます。
水爆実験という当時のホットな時事問題を作品のテーマに組み込んだことは有名な話ですが、思っていた以上にストレートにメッセージが主張されていました。
二度の原爆で深い悲しみと傷を負った日本人は、それでも水爆実験を始めた当時の諸外国に対して悔しさと怒りを感じたに違いありません。映画の作り手側がいかにこの作品で反核メッセージを世界に送りたかったのかが伝わって来ます。

国会では博士の報告を受けて、水爆実験がもたらした怪獣だと公表するのは国際問題に発展するではないかと主張する政治家と、事実は事実として公表すべしとする政治家で分かれ、国会は紛糾します。
今も昔も政治家の目線は政治にしかなく、目の前に迫った国民の危機ではないのだと感じる一コマなのですが、やはりこの時点で気付くことは、島国日本において多くの悲劇は海側からもたらされるということです。
津波も戦争も、海側から災禍がやって来ます。ゴジラもまた海の底から現れました。
まず先に、漁船や沖合の島が悲劇に見舞われるのです。謎の沈没事故が多発し、陸地にいる人々は何が起きたのかと不信感を高めます。
海に出ている人々に異変が起きると言うことが、凶事の始まりなのです。陸地の人々はその予兆に気付かなかければならない。
海で何かが起きた時、じきに陸地にも悲劇が起きる。政治家たちが紛糾している場合ではなく、じきに陸地に同様の災禍がもたらされると想像しなければならないのです。

やがてゴジラは予期していたとおり、品川や港区など海辺の近くから上陸し、東京には破壊をもたらし始めました。
まだこの当時、人々の中には戦争の記憶が真新しく残っている時代です。
電車の中でゴジラの到来を恐れていた女性は長崎の原爆から生きながらえた生存者。後にキーパーソンとなる芹沢博士も戦争で心身ともに傷を負っています。今は自宅の地下で人と接触することを避けながら密かに研究を進めています。
ゴジラの攻撃を受けて絶望した母親が、崩壊する町の中でうずくまりながら小さな子供たちを抱えて「もうすぐお父ちゃんの側に行くのよ」と嘆いているのは、何気ないシーンですがとても心を引き裂くシーンでした。きっと父親は戦争で亡くなってしまったのでしょう。
そもそも放射能や被曝といった問題が、まだ原爆投下から10年も経っていない日本にとっては大いなる脅威なわけです。

ちなみに、ゴジラがかじりつく最後の最後まで生中継していた記者たちは倒壊する建物と同時に「皆さんさようなら」と放送して亡くなります。『ゴジラ-1.0』でもオマージュされていた演出です。

ゴジラが町に初めて上陸した時、最初、人々は高台にあがってただ恐怖に慄きながら、目の前の災厄を見守ることしかできませんでした。
自然災害の惨事を目の当たりにした時と同じで、ゴジラは人間には手出しができないものでしかないのです。
高熱波によって燃え盛る街並みに浮かぶゴジラのシルエットがあまりにも禍々しい。火の海となる街を目の前にして、住民たちは「ちくしょう」と悔しがります。何も手足が出せない虚しさに打ちひしがれています。そして生まれる被災者や孤児たち。野戦病院のように被災者たちが担ぎ込まれる中で、母親が亡くなって泣き叫ぶ小さな女の子の泣き声がとても虚しく響きます。
戦禍に巻き込まれる何の罪もない市井の人々の悲しみをこれでもかと世界に発信しています。
戦争の記憶が薄れることなく残っていた当時だからこそ、再び傷を負って悲しみに暮れる市民の演技がリアルに感じます。

現代の感覚ならこれだけの火の海になったらもう町は、人は、立ち直れないと思ってしまいます。
ただ、当時は東京大空襲からわずか10年で街をあそこまで復興させたという実績もあった。きっと虚しさと悔しさに見舞われる中にも、また立ちあがろうとする強さもあったのではないでしょうか。
それだけの苦しみを目の当たりにする中で、山根博士の娘の恵美子はゴジラを倒す唯一の希望として、芹沢博士が極秘に進めていた研究に目をつけます。そして、ゴジラによるこれ以上の惨劇を防ごうと立ち向かうのです。
ゴジラという大いなる脅威、それは核兵器を伴った戦争そのものの象徴ですが、それだけの脅威をもってしても人間は諦めずに立ち向かうことができる。そんな強い意志を感じる展開です。
やられっぱなしでなく、必ずやり返してやろうという強い意志です。

恵美子は芹沢博士に研究の成果を公表し、ゴジラ討伐を実施しようと説得するのですが、芹沢博士はなかなか公表を受け入れられません。
脅威的な破壊兵器を開発するのはいつも科学者で、芹沢博士は純粋な研究を破壊兵器として使用される苦悩を抱えているというのが、本作におけるもう一つのドラマです。
原爆、水爆と科学兵器の脅威を目の当たりにしてきた芹沢博士は、それに匹敵する新たな兵器、「オキシジェン・デストロイヤー」の公表を拒み続けるのです。
オキシジェン・デストロイヤーは水中の酸素を徹底的に破壊し、生物を骨ごと溶かしてしまう威力があります。それが世間に公表されれば、諸外国に新たな兵器として悪用される可能性の高い恐ろしい研究です。
研究成果が戦争や武力として使用されるということは、研究の死を意味しています。恵美子や緒形らの説得に根負けした芹沢博士は、故にゴジラ討伐一度にのみ使用を許可し、長年の研究成果をすべて燃やしてしまうのです。決してその後世界がこの脅威に飛びつかないように。
更に芹沢博士は水中での使用に伴って自らの命を差し出す覚悟を示します。オキシジェン・デストロイヤーを使用する際、自らも海中に潜って確実にゴジラを仕留めようと言うのです。
それ以前に芹沢博士はたとえ資料を滅しても自分の頭の中にはアイデアが残ってしまうと言っていました。
芹沢博士の決断は、自分の死を持って兵器の再開発を防ごうという自己犠牲の精神なのです。

1954年の本作においては芹沢博士は自らの死をもって兵器による悲劇の繰り返しを防ぎました。
『ゴジラ-1.0』において主人公の敷島も自らの死をもってゴジラを倒そうとしていましたが、その決断は最後に「生きよう」という決断に翻ります。
原点の着地点とは全く真反対の着地点に変えていたのですが、そのどちらも時代を反映した着地点なのかもしれません。

ゴジラ討伐は成功し、ジュラ紀から蘇った怪獣は骨ごと溶かされます。
ゴジラ討伐によって歓喜に包まれるはずなのですが、ラストシーンは少し静かで寂しい展開です。きっと何も知らない陸地の人々は歓喜に包まれ、事実を知る者たちだけが芹沢博士に対する追悼の思いを海に捧げていたのだと思います。

そんな中、山根博士は最後に「あのゴジラが最後の1匹だと思えない」と呟きます。水爆実験が繰り返されれば、ゴジラは再び現れることを示唆するのです。
不吉な予言ですが、その予言があったからこそ、その後もゴジラは続き、日本が世界に誇る伝説的シリーズとなったと言えます。

「ゴジラ」シリーズがこの世界でウケなくなった時、すなわち不要となった時というのは、世界が核武装を放棄して平和になった時です。
その時が来るまでは、山根博士の予言のとおり、新たな脅威が繰り返されていくのかもしれません。

ゴジラの歩みは、平和へと至る世界の歩み。

日本のゴジラが世界のゴジラとなった今こそ、本作の原点に立ち返り、当時の日本人が発信していた警鐘を伝え続けてほしいと感じました。