ずどこんちょ

シン・ウルトラマンのずどこんちょのレビュー・感想・評価

シン・ウルトラマン(2022年製作の映画)
3.5
冒頭、『シン・ゴジラ』というタイトルが表記されるやいなや、すぐに『シン・ウルトラマン』に切り替わります。
「ウルトラQ」から「ウルトラマン」に切り替わるオリジナルのオープニングのオマージュになっており、開始早々から庵野秀明の特撮に対する思い入れが感じられる再現になっていました。

冒頭に次々と登場する禍威獣たちは、『ウルトラQ』の怪獣だとか。
それらの禍威獣の出現と、禍特対の結成がテンポ良く説明されます。冒頭から無駄なシーンは一切なく、実に分かりやすいです。
そんな禍特対の前に、ある日、ウルトラマンと呼称される謎の巨人が現れます。正体不明の巨人は、禍威獣を撃退。
あたかも人間の味方であるかのように颯爽と現れるようになるのです。

禍威獣とウルトラマンの闘い方はちょっと変。
ウルトラマンが全身伸ばした状態でクルクル回転して敵を吹き飛ばしたりします。でもその動き方も、スペシウム光線のチープな演出も、当然のことながらオリジナルのウルトラマンシリーズの再現です。
随所にオリジナルに対する深い敬意を感じます。

ウルトラマンに変身するのは、禍特対メンバーの神永です。
実は本物の神永は作品冒頭の禍威獣による襲撃で子供を庇って死んでしまっており、ウルトラマンはそんな神永の自己犠牲の姿勢に共鳴して、彼の身体を借りてなりすましているのです。
人間ではない外星人として、斎藤工がミステリアスな演技をしています。

長澤まさみ演じる浅見はいわゆる本作のヒロインなのですが、『エヴァンゲリオン』にでも出ていそうな庵野監督らしい強い女性を演じています。
とは言え、本作では外星人に利用されて巨大化させられてしまうし、その写真がネットに晒されるし、シャワーも浴びてない時にウルトラマンに匂いを記憶されてしまうし、『シン・ゴジラ』の石原さとみとはちょっと違う立ち位置に立っているようです。少々コメディ寄りのヒロインなのかと。
キャストで言えば、『シン・ゴジラ』のあの人を彷彿とさせる形で竹野内豊が登場したのはサプライズでした。

外星人という存在は、私たちに外の視点をもたらします。
人間は地球に住む主体であるという視点しか持っておらず、この星の行く末を自分たちで考えてきました。
ウルトラマンが現れる前に禍威獣が何度も出現した時も、人間は自衛隊の武力や科学技術の力を持ってその災厄を乗り越えてきたわけです。

ところが、ウルトラマンを始め、ザラブ星人やメフィラス星人が現れると事態は変わります。
彼らはそれぞれの立場で人間を外から観察していたのです。
ザラブ星人は圧倒的な特殊能力によって人類を追い詰め、人類間同士での争いによる滅亡をもたらそうと企みます。
人類を「害虫」と呼んでいるように、彼にとってはまさしく人間はこの星にふさわしくない邪魔な存在です。

直後に現れたメフィラス星人はそれに対して一見すると友好的なのですが、どうも人間の情というものは無いらしいということが次第に感じられてきます。
彼は人間を愛しているのではなく、一つの種族としてその存在を認めているに過ぎないのです。
そのため、人間を巨大化するというパフォーマンスによって自らの持つ科学技術の素晴らしさを知らしめます。メフィラスにとって催眠の末に巨大化された浅見は人体実験みたいなものです。
世間に恥を晒して苦しむという浅見の心境には考えが及ばなかったらしく、パフォーマンス後にネットに拡散された巨大化浅見の画像を、メフィラスは責任を持って全消去します。結局、メフィラスには人間への配慮はないのです。
そして、人間を巨大化するベーターシステムという武器を供与する代わりに、自らを「人類の上位の存在」として扱うよう協定を提案します。やはり彼は決して友好的な外星人ではありません。嫌なヤツです。

一方、ウルトラマンはどうでしょうか。
光の星からやって来たウルトラマンの目的は、星間協定に従わない外星人や禍威獣から地球人を守ることでした。
始めのうちは禍威獣を倒すことを目的としていたウルトラマンでしたが、人間の神永
が子供を守るために自らの命を投げ出した姿を見て、人間の美しさ、愛おしさを知るのです。
そして、この星を守ることという使命から、愛すべき人間を守ることを自らの使命としていくのです。

外星人たちはそれぞれの思惑で人間のことを眺めています。
居酒屋でメフィラスとウルトラマンがそれぞれが感じている人間というものを語っていたように、我々は地球という星の主体であると勘違いしていながら、その外の世界に住む外星人たちからは「語られる存在」になっているのです。
私たちの行く末をどうするかは、彼らの手にかかっていると言ってもいい。
未知の禍威獣を延々と倒し続けて来た地球人ですが、自分たちの行く末を守ってきたなどとはおこがましかったのだと感じさせられます。

ゼットンが現れた時が象徴的で、地球を壊滅させる規模の攻撃準備を始めているゼットンに対して、人類はいとも簡単に「ウルトラマンなんとかしてくれ」と懇願します。
劇中でも、困った時の神頼みがお得意だと揶揄されていたように、私たちは自分たちの星を守っていると過信しながら、同時にどうしようもなくなった時にその外の世界にいる神的な存在にすがりついているのです。

禍威獣は環境破壊の末に生まれた存在だそうです。
結局、地球の環境を壊しているのは人間で、禍威獣を呼び起こしているのも人間です。
コントロールしている気になって、守っている気になって、地球環境も人類のこともまったく守りきれていないのが人間。
この構図に気付いた時、本作において滝が絶望して悲観的になってしまった心境も理解できる気がします。結局、すべては自らの手で招いた地球滅亡の悲劇だったのですから。

ところが、そこに一縷の希望が生まれるのが本作の明るい部分です。
人類には何もできないと悲観する滝でしたが、知識と努力を集結して最後まで抗うことができるのが人間だと諭されることで、世界中の科学者の知識を集結して、たった一つの妙案を思い付くのです。
そして、その妙案にはウルトラマンの自己犠牲も必要でした。人間を愛するウルトラマンだからこそ、彼らの案にすぐに賛同してくれたのです。
自己犠牲といえば、神永が子供を守った時の咄嗟の判断です。ウルトラマンが地球の人間をゼットンから守るために自己犠牲をしたのだと言うのなら、彼の心は限りなく人間の心を理解し始めたのだと思います。

ゾーフィの「そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン」という言葉は、彼が人間のことを理解し始めていることに気付いたゆえの言葉だったと思います。

それと同時に禍威獣や外星人が決まってこの小さな島国から征服を始めようとすることにも皮肉的な意味があるでしょう。
本作における日本政府は外星人の脅迫や交渉に対して割と従順に受け入れてしまい、翻弄されています。ザラブ星人が偽ウルトラマンを生み出して街を破壊した時も、あれはウルトラマンではないのではないかという疑問を持つ者もいましたが、結局はザラブの思惑通りに事が進みそうになっているのです。
メフィラス星人がベーターシステムを取引に利用し、人類の優位に立とうとした時でさえも、その交渉を受け入れるのです。
日本政府には人間としての、地球人としての誇りや堂々とした振る舞いはありません。むしろベーターシステムを手に入れて、世界情勢の中で覇権を握ろうとさえ考えているのです。
すなわち、結局、日本政府のトップはこの地球という箱庭の中でしか物事を考えられないのです。そこの視点しか持ち合わせていません。

『シン・ゴジラ』では政府内の官僚たちが未知の怪獣ゴジラに対して全勢力を導入して立ち向かいましたが、本作の政府は脅威に対して安易に翻弄されます。
一方で地球の主体としての誇りを示したのもまた、禍特対のような人間による知識の結集だったのです。
人間は外星人とは違って「群れ」になることが特徴的です。「群れ」ることは外星人から見下されておりましたが、実際には「群れ」ることでゼットンのような絶望をも乗り越える事ができる。
そもそも神永のような自己犠牲も、「群れ」だからこそ生まれる他者の尊重によるものです。メフィラス星人のような個体が優位と考える主義であれば、他者がどうなろうと関係ありません。
小さな子供の命を救うことが人類の未来に繋がるという感覚は、「群れ」ならではの感覚です。
群れの精神こそ、ウルトラマンが愛した人間の取り柄だったのでした。