Habby中野

オッペンハイマーのHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

異常だと思った。それはすべての時間と事象に対してではなく、おおよそ映画の三分の二ほどの時間の中の、驚くほど非人情な対象への距離感と機械的な編集の速度について。これはひとりの人間のストーリーなのだと、そういう語り口のふりをするにはあまりにも手触りのない、こちらの感情や思考の入り込む隙間のない彼の人生への映画の眼差しは、不信を、あるいは嫌悪を抱かせる。歴史を知るわれわれにとってはあまりに耐えきれない高慢な人間の愚かさ、それに触れ得ながらもまるで人間の半生を数十分にまとめることなどできないと映画の存在自体を唾棄するような態度は、しかし、その三分の二を越えたあたりで大きく変化する。映画は、その眼差しによる意味の測定自体を批判し、覆そうとし、冷徹な身体は自壊して不安定な肉体をさらけ出す。それはつまり、原爆の威力と結果を目の当たりにはしていない主人公が自身を賞賛する人々に幻視する広島・長崎の被害者たちの姿であり、または映画のその表現力の力強さであり、一方でそれでもなお表現しきることのできていない”現実”の物語である。映画は、視覚的で、時間的なのだ。その身体は時にわれわれと相対し時に同化する。滑稽なほどドラマチックな物語はしかしこんなにも長く─3時間近くにも渡って!─見てきたにもかかわらずほとんど何の心情もわからない主人公の姿と重なってずり落ちて、われわれの目の前でどんどんと崩れていく。裁くものも裁かれるものも─「これは裁判ではない」─曖昧で不安定で混沌として─観客は、『ボーはおそれている』のように被告の側に立つ霊となるのでもなく、『落下の解剖学』のように裁判官として参加するわけでもない─ただスクリーンが間にはさまっていることを意識してそれに感謝さえする。それでもオッペンハイマーの幻視はただの幻視とならず網膜に焼き付き、自戒の(彼が心からそう思っているかどうかは別として)言葉を吐くのを正面からただじっと見る。まるで裏側が表になるように、いつの間にか─いやしっかりと3時間をかけて─映画の向こう側とこちら側は入れ替わっていく。崩れるべくして崩れるものを前にして、異常なのはどちらか。非人情なのは、機械的なのは、不信を抱くのは、裁かれるのは。いやそんなものとして許してはいけないことが絶対にある。でもそれはスクリーンの向こう側なのか?誰が、許してはいけないと言うのか?
血の流れない映画と血の流れる人間。初めて、本当の意味で身体的な映画を見た。
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