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地図になき、故郷からの声
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地図になき、故郷からの声の作品紹介

地図になき、故郷からの声のあらすじ

クルドの語り部・歌い手であるデングべジュ。彼らは、母語であるクルド語が禁じられてきたトルコにおいてクルド語で歌い続けた。土に埋められたカセットテープを、40年間探し続けるひとりのデングべジュ。子どもたちをトルコ人と同じように育てることで彼らを守ろうとした、村で最後のデングべジュ。彼らをめぐる「物語」にのせて届けられたその『声』は、今、クルド人の新たな物語が紡がれている日本で解き放たれた。

地図になき、故郷からの声の監督

中島夏樹

原題
Voices from the homeland
製作年
2021年
製作国
トルコ日本
上映時間
60分
ジャンル
ドキュメンタリー

『地図になき、故郷からの声』に投稿された感想・評価

ganai
4.0
「トルコ・シリア大地震支援チャリティ上映会」という催しで鑑賞。本作でトルコ語通訳を務めた礒部加代子さんとクルド人当事者の方を交えたトークショー(とクルドのお菓子)付き。

1920年代トルコ政府の同化政策によりクルド語を禁止された中で、歌により細々とクルド人の文化を伝えてきたデングベジュと呼ばれる語り部を、トルコ南東部に訪れて取材したドキュメンタリー映画。

100年近い弾圧の間に親世代は息子たちを学校に通わせるために都市部に移り住み、地位や豊かさと引き換えにクルド語は徐々に薄まり、未だ勉学への道を阻まれて家で過ごす事の多い女性と少数のデングべジュがクルド文化を伝える担い手になっていったのだそうです。

映画の中では三人のデングべジュ本人や親族・知人にインタビューしているだけど、語り伝えてきた話は政府から受けた虐待の記憶、恋話、軍記など人によって実に様々なのが興味深い。

終盤には政府の迫害を逃れて日本にやってきたクルド人の方が彼ら自身が過去に列強国の後押しで他民族を迫害した歴史がある事、今自分達が同じ目にあっていて歴史は繰り返すのだと語っている。

多分その人は入管法による長期収容や強制送還の恐れの中で建物解体の仕事に従事しているのだけど、ある家に捨て置かれた百科事典の1920年の世界地図にクルディスタン(共和国)と書かれているのを見つけて驚喜してスマホのカメラに大事に残しているのだそうだ。いつかクルドの存在が忘れ去られそうになった時に「ちゃんと日本の事典に載ってたぞ。私達の国は確かにあったんだよ!」と胸を張って伝えるために。

映画中盤のトルコでのインタビュー中に、通訳の礒部さんが「日本でクルドの研究をしています」と現地の方に伝えると「日本でそんな研究して何になる⁉︎トルコでこそ研究するべきだろう?」と問われて絶句してしまうシーンがあるのだけど、実はその答えは朽ち果てた古い日本家屋から見つかった百科事典の中にあったのだ。
2.5
「クルドを知る会」が主催した上映会にて鑑賞。クルドについてはいずれ勉強しなきゃなと思っていたので、こういう機会があることが本当にありがたかった。クルドの歌や、何を大切にしているのか、なぜ日本に逃れてきているのか、いまどれだけの人がいるのかなどなど、クルディスタン(クルドの人たちが住んでいる地域)に取材に行かれた監督とそのお母様、長年通訳をされてる方、そして在日クルドのゲストの方のお話を聞き、本当に勉強になることばかりだった。「みんな同じ空の下で生きてる」という言葉、その通りだよ。私は本当に世界のことを何も知らないなあと反省することばかりだ……

という感じで、上映前後のトークショーやスライドなどは本当に勉強になったのですが、映画自体は正直これ「映画でやる必要あった?」案件だった。
弾圧されたクルドの言葉や文化を伝えるデングべジュと呼ばれる唄い手の存在や、彼らとの思い出を語る人々のインタビューを中心に構成されており、それ自体は非常に独自性が高い。しかし、クルドの美しい風景がスライドショーのように続くだけの映像に延々インタビュー音声が載っているものを見せられ続けるのはいかんせんうんざりしてしまう。

さらに、このデングべジュという存在や、クルドが受けた弾圧の歴史についても「分かっている人が描いてる」といった感じで、冒頭チラリと文章で説明されるほか特になんの補足もなく、全体的に置き去り感が強い(イベントでは事前のスライドなどでここが捕捉されていたのでなんとか理解できた)。

インタビュー音声にしても、ほとんど編集もなされていない(時に支離滅裂な)素人の回答を延々と聞かされるのでいったいこの会話のどこが大切な部分で、何を伝えたくてこのインタビューがなされているのか分からず、ドキュメンタリーとしては不完全だと思った。素材をそのまま見せるのが意図だというのであれば「そうですか」としか言えないが、それはドキュメンタリストとして一番大事な、物事を通した作り手の"視線"を放棄することなのではないか。

デングべジュという存在がクルドにとってどうだったかを語らせるには、デングべジュはあまりに生活に近すぎる存在だったんだと思う。家族が家族を語る時って、近すぎて他人からはよく分からない説明になっちゃうじゃん。それと同じで、正直クルドの人たちが語るデングべジュの話、この映画の中だけだと正直分かるようで分からないみたいな感じだった。そこをインタビューや編集でうまく引き出すのが、本来ドキュメンタリーなんじゃないんですかね。この映画がやってたのはどちらかというとクルドという存在を通したアートなんだなと思った。

というか、上映終了トークショーを聞いてたらすごい面白い取材秘話がどんどん出てきたので私は全然そっちの映像の方が俄然見たかった。しかも監督私と同い年らしい!すご〜!!
umi
5.0
トルコ、シリア、イランといった国において、クルドの人びとは今も迫害を受けている。トルコにおいて、クルド語を用いること、クルド語の歌を歌うことは長く禁止され、監視の対象になっている。口承で文化を伝えてきたクルドの人びとにとって、クルドの声、ことばを伝えてきたデングべジュの存在は心の中に刻まれているものであり、そして語るには緊張が走る存在でもある。デングべジュたちは、普段の生活の中で感じる喜びや悲しみを言語に変える。歴史と文化を伝える。人びとはデングべジュの声を聞けなくなること、文化の担い手を失うことに、悲しみを感じている。

何より重要だと感じたのは、「この(デングべジュの)研究を日本でやっても仕方ない、トルコでやるべきだ。」と監督が直接言われているシーンだ。スクリーンを超えて、わたしのところまで突き刺すように、届く。わたしにも問われている。なぜわたしはクルドのことを知りたいと思っているのだろう。わたしが日本でクルドのことを知ったり、感じたりしたことで何になるのだろう。

トルコにおいてクルド語で歌うこと、そのこと自体が「政治的」な行為であるとみなされる。ここにおいて、「政治的」とはどういうことなのか。安易にわかった気になることはできない。デングべジュの歌のたたえる喜びや悲しみをわかるには、まだ精神や身体がその境地に達していないような感じがしている。ホセ・ムヒカが「タンゴは郷愁そのものだ。何を手に入れ、何を失ったか。人生での喪失を知るもののための歌なのだ。いくつかの挫折を知った後に好きになる音楽だ。」と言っていたことを思い出した。何も喪失する過程をもつことなく、日本でデングべジュの歌を聞いたとして、何になるのか。だが喪失とは異なるが、わたしの中で、まさに何かが崩れている。ことばもわからないのに、歌に寄り添われている。

感じたり、想ったりすることが、「政治的」であることを心身を通して理解するための始点になるのだと思いたい。日本における移民・難民政策を問い直す上においても、だ。

これからわたしがさまざまなことを知ったり、感じたり、考えたりして行く中で、きっと再びこの映画を見たいと思う日、歌を聴きたいと思う日が来るのではないかと思う。なんとなく、どのような形でもいいので、いつかまた出逢い直すことができることを願う。