完璧な人間はいない。過ちを犯さない人間もいない。すべてをそこから始めること。「脚本協力」に高橋知由。
ジャン・ルノワールの云う「内的真実」を欠いた「外的事実」の集積。
映画開始10分で福山雅治が発する「弁護士に被告人への理解や共感なんて要らねえんだよ」という台詞を合図に、以後、彼の思想信条を得々と突き崩していく是枝流説教節が続く。
登場人物すべての台詞と演技の裏側>>続きを読む
『悪童日記』を大人側から逆照射したような作品だが、子どもたちにモノローグで内面を語らせてしまった実写版の『悪童日記』(2013)よりも、三人称に徹した本作のほうがホラー映画として成功していると思う。
バーチャル的またはリストカット的な暴力。柳楽優弥を主軸に繰り広げられる暴力と、劇中に出てくるコミュニケーションゲームのなかで繰り広げられる暴力とは、実は同質なのだ。「痛み」を感じず、希薄な生を確認する>>続きを読む
ドウェイン・ジョンソン🆚高さ1㎞、240階建ての世界最大超高層ビル。武器は彼の肉体に加えて、ダクトテープ、『上海から来た女』、再起動すりゃスマホの故障は大抵直るという、大ざっぱ一点突破楽天主義。
撮>>続きを読む
映画の面白さとは何か。観客の分だけ千差万別の多様な形があるなかで、少なくとも私にとっての最も大きな醍醐味は、自分の予想や想像を超えた「何か」を見聞きし、体験できるひとつの宇宙であり時間だということだ。>>続きを読む
光と影。善と悪。愛と憎しみ。美と醜。公と私。
およそ人間の持つ二面性のすべてが完璧なドラマとして集約され、ひとりの女の顔のなかに顕現している。何度見ても圧倒され、ぐうの音も出ない。デビー!!!
此岸に横たわる死と戦争の彼方に幻視された悲しき女たちの王国。やはりソフィア・コッポラの映画だ。『ヴァージン・スーサイズ』の陰画として見た。
結局、ラストにおけるスノーデン本人の出演は、あまりにもドラマティックな現実に対して、オリヴァー・ストーンがシャッポを脱いだとしか見えない。
緊張感においてはドキュメンタリー映画『シチズンフォー スノ>>続きを読む
名誉と恥こそが唯一の大義である戦争と修道院長が犯した罪の動機は、実は同根であるということ。
修道女たちの「静」と『呼吸 -友情と破壊』のルー・ドゥ・ラージュが見せる「動」との鮮やかな対比。彼女を彩る>>続きを読む
びっくらこいて腰が抜けるかと思った。エイリアンシリーズのすべての要素をぶち込みつつ、どの作品にも似ていないトンデモっぷり。リドリー・スコットはもはや面白さとは別の次元で、観客を置き去りにして途方に暮れ>>続きを読む
舞踏家である田中泯をあのような最期にしてしまうのを一例に、三池崇史の底意地の悪さ(良くいえば天邪鬼)ばかりが目立つ。いくら原作ありきだとはいえ、脚本がいびつで冗長すぎるのは致命的。
LGBT=正しさの紋切り型には収まらない脚本は好感が持てるし、山場である二人の試合のたたみかけるような迫力と結果には涙を禁じ得ないが、それでも最終的には個人へと収斂してしまうところに詰めの甘さを感じる>>続きを読む
ホン・サンスはその最初から徹底した断絶の作家だったことがわかる。
破れたコンドームへの嫌悪。女の背後を捉えた靴屋でのロングショット。いくらカーテンの閉ざされた暗い室内を凝視しても、その内部を見ること>>続きを読む
男と女と子どもと一台の車があれば映画が撮れる。監視カメラは武器だ。こんなにも単純かつ知的な抵抗と告発は見たことがない。
男は知らない。金魚のように言葉を飲み込み、悲しみを飲み込む女がいることを。
スジョン=女は謎だ。いくら彼女を理解し、愛そうとしても、男たちはその名を忘れ、彼女の身体から流れる血を洗うことしかできない。
実はスジョンは謎ではない。なぜなら、女たちの眼差しの向こうには、謎のまま>>続きを読む
映画には煉瓦と石のほかに、実はトーチカでできた映画というのがある。モモ・ゴッツ・サッタールはワンコの名前。
どれほど堕ち、損なわれ、濁りのなかにいても、瞳に宿る光と背筋を貫く真っ直ぐな生の芯は決して失われてはいない。綾野剛と村上虹郎の二人がもつ清澄さがとてもいい。
綺麗事とお涙頂戴のガラパゴス的日本映画をバッサリとぶった斬る視点を持ちながら、いまを生きる若者たちへの困難と希望をしっかりと描いてみせる三池崇史の涙ぐましい気概。鬼才と謳われる映画監督役の豊川悦司が儲>>続きを読む
北イタリアの風土と光、ティモシー・シャラメの天才的な演技が圧倒的。だが正直、同性愛の描き方には違和感が残る。
ネックを傷つけないように優しくギターを置くシャラメと、発掘された彫像の手を置くアーミー・>>続きを読む