家族が家族であることの不可能性を描くテーマは一貫している。特に今作は子供の喪失を扱う点で『淵に立つ』と共鳴する。鳥よけのCDで男たちが寄ってくる。子供を欲する男性には猫が授けられる。
秘密を共有するのに森ほどふさわしい場所はない。窓から外を眺める人物を捉える冒頭は、映画全体を覆うクローズドな空間を規定するショットである。だから、いつどのように「外側」である広い空間へ突き抜けるかが肝>>続きを読む
高倉健は玉音放送を聞くとき、くずしていた姿勢を正し、正座になる。自分が戦争に行けなかったことに深く傷ついている。闇市のなかで、在日朝鮮人にたいして敵意の眼差しを向ける。
『霊的ボリシェヴィキ』同様に、歌と死体(写真)で霊を呼び起こす。孤絶した家で、人物は死体を映したスクリーンに囲まれる。地獄の底が垣間見え、人は突然消える。
モンスターが人間(男性)を殺すことに、ある種の正当性を感じる。これは映画が内包する社会的な問題意識がもたらしている。倫理、道徳を踏みにじる存在としてのモンスターは、ここにはいない。
盲目のお遍路となって四国を巡礼する。常に海へ出ることを求めるが、結局は大地に縛り付けられる。
顔にアザがある。『dressing up』の少女も顔が変形して怪物と化したから、なにか監督のオブセッションのようなものを感じる。中島歩の俳優的なペルソナである「裏切り」「軽薄」を生かしたキャスティング>>続きを読む
雷鳴轟く豪雨のなか、菅原文太が戸を蹴破って襲いかかる。この稲光と、梅宮辰夫を照らす工事現場の光とが呼応する。映画の終わらせ方が凄い。
『トラック』と相同的。映画が作られる以前。製作手前である、構想のまま差し出すということ。
撮影はブリュノ・ニュイッテン。あらゆる革命は必ず失敗する。人はもはや何も読まず、何も見ない。人類の停滞とトラックの前進。世界は滅びゆけばいい、それこそが唯一の政治。
部屋のなかに囚われた女性。外からは陽気な音楽が常に流れ込んでくる。楽しそうなのは外側だけ。だから映画では窓が重要なオブジェクトになる。窓は常に外界を美しく風景化する。これが閉域に囚われた人間にとってど>>続きを読む
ボリス・カーロフによる前口上。窓の外を見ると、白い衣装を身にまとった子供がゆっくり歩いてくる。愛、幸せ、私には二度と手に入らないもの、と言う。
生者の目は潰されて、死者の目は大きく開かれる。胸には銀のグリフィン。人生には不幸しかない、いつのまに壊れ、もう修復できない。生きる活力も徐々に失われてゆく。バーヴァのホラーには孤独が染み付いている。
動物と黒人は常に映画製作の裏方にいる。マイブリッジ的な映画の原初を取り戻す、あるいはたびたびゴリラやサルのメタファーとして映画内に表象されてきた黒人によるSF映画史に対する復讐ともとれる。白人たちによ>>続きを読む
ロバート・カーライルは労働者階級だから、ニカラグア情勢のことなど何も知らない。観客と主人公が同一化することで、かの地の実情を啓蒙的に追体験させる。カーライルが車の修理をして、一時的にその場のコントロー>>続きを読む
都会に降る雨、傘の群れ、ごみ収集車、といった景色のなかで、カメラは主演女優のメタファーとなる一匹の小猫を捉える。この冒頭から画面にべったりと孤独が染みついている。小泉今日子が最後にサンダルを脱いでそろ>>続きを読む
歌舞伎町のネオン街。赤のライティングと、後半の青い海とのコントラスト。主演女優の無機質な表情と棒読みが、真蒼な画面の色調と合致してハードボイルドを的確に演出している。車内では、人物どうしの視線が垂直に>>続きを読む
ファザーランドを捨ててマイファザーを探し求める。モノクロで夢を描き、ときおり啓蒙的な字幕が挿入される。
仙元誠三のカメラは基本的に人物と距離を置き、室内ではカメラを固定、観察者の立場に徹する。その静的なカメラが動に転じる瞬間の躍動感。カルロスが長い廊下を走るときのサスペンスが素晴らしい。ネオン、パトカー>>続きを読む
ドラマは常に川辺で起こる、という意味でルノワール的。車が故障してバカンスが始まる。社会生活から切り離された空間。映画の本質は現実逃避だと改めて教えてくれるよう。森のなかで眠り、誰かの歌声で目を覚ます、>>続きを読む
社会問題を考えるために映画が存在しているかのよう。感情的な女性、常に大声を張り上げる。
リッキー・トムリンソンがまたしても尻を見せつける。借金をすると取り立てがやってくる。金がない。俺はカトリックだ、そして食えない、と言う。
「場所」を求めて彷徨う女性。彼女が行き着く風景は炎の広がる瓦礫の山、つまり荒野である。これほど没場所性を象徴するシチュエーションもない。
バーヴァ版『サイコ』。過去の自分に常に監視されている男性。女性をモノ=人形=玩具として扱い、惨殺し、死体を愛でる。室内空間は幻影と妄執、快楽と死が充満する極彩色の牢獄。焼却炉の赤。過去に囚われたまま、>>続きを読む
絵画の中へ入り込んでゆく導入。崖を馬たちが駆ける。ハリー・ケリーは『誉の名手』同様、立ち去るのではなく、留まる人として現れている。砂嵐に埋もれる。
アメフトの試合における地面の泥。集団を描くが、黒人(と山羊)だけは集団の外部に置かれる。
室内の極彩色、移動撮影、秘密の日記。死ぬことではじめて結ばれる恋人たち、という『白い肌に狂う鞭』から引き継がれる主題。
鬱病は中産階級の病気であって、労働者階級はそんなものにかかる暇はないのだとロバート・カーライルは言った。
最底辺の人間たちが高所で肉体労働をする。足場は不安定。いつ崩れ去るのか、奈落に落ちるのかわから>>続きを読む
性愛と暴力が不可分の関係になっている。城内のゴシックで妖艶な色彩と、トール・カルダーラの海岸をはじめとした外界の暗さ、陰鬱さとのコントラスト。
遊歩的な映画。都市に住むということは移動することであり、あたりまえだが仕事をすることでもある。仕事の関係で別の場所へ移動する女性、警備の仕事のためにその場所に留まる男性。あてもなく相手を探すためにまた>>続きを読む
瓦礫、空洞としてのベルリン。都市というより、荒野のよう。人間はまばら。心が荒んでゆく風景。
交通、食事、群衆、動物たち。都市のダイナミズムをモンタージュで表現する。遊園地と動物園、二つの場のアトラクション性がベルリンという都市に結び付けられている。
学問を修めるためには金がいる。その金をどう稼ぐのか。人間は、ほんとうのみじめに陥ると地べたに這いつくばって泣くのだと見せつけられる。自分たちを憐れんでくれるのは仏様だけ。折鶴が飛び立ち、山田五十鈴の魂>>続きを読む