Habby中野

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスのHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

3.8

このレビューはネタバレを含みます

数年前のインフル、そして昨年のコロナと高熱病にかかった二度、とんでもない悪夢を見た。一つは「“自分”が増殖しつづけ、ついにはアイデンティティを喪失する」という存在的な恐怖、もう一つは「この世界はすべて暗闇のガワで、表面はついに剥がれ落ちてしまいもはや時間も変化も物理もない、ただ意識がどう動くこともできないままあるだけとなる」虚無への恐怖だった。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』、唱えたくなる経のような、少々強引で崇拝的な意荒療治。その一方で論理的に、おそらく経験によって根拠づけられた救いの手、その方法の表明だと思う。人生は苦しい。仕事に追われ、生活に追われ、社会に睨まれ余裕もなく、うまくはいかず、自由もさほどなく、空しく、重く、痛く、めんどくさい。あとさみしい。洗濯槽のごとくグルグル回る、それできれいにだけなられても。でも!それはいまこの自分がそうなだけであって、これまでの無限の選択肢で分岐した“ほかの自分”はそんなことないかもしれない!あるいは、この自分がこんなに苦しいのは、ほかの自分がうまくいくためだったのだ!だからこの苦しみを脱却するために、“あらゆる可能性のあった自分”の力を借りて、打破していこう!そうすれば、ほかの幸福の可能性も味わいながら、いまこの自分の人生をよりよくすることができるじゃないか。可能性への夢見が冷めた目醒めにまどろみをもたらす。あらゆる可能性にキッスを……。
しかし自分でも驚くことに、このカートリッジに心の互換性はなかったようだ。たぶん規格が異なる。この作品は間違いなく素晴らしく、観ることができて本当によかったし、構造から演出までとても好きなものだった。理想的だと思う。でもなぜか、いつの間にかできた傷が化膿しているような疼きを感じる。それはやっぱり雄弁な思想や論理やできているものの強固さ、にさえ勝ってしまうちっぽけな恐怖感から来ているのだろう。あらゆる分岐世界の自分から力を引っ張ってきたとして、それを使いこなすのが自分なのだと、なぜ言えるのだろうか?アイデンティティは、生まれ持ったものではなく、それこそが自分だけにしかない─ほかの自分にはない経験と、その連続した生の先に居続けている、ということからしか掴みえないのではないか。マルチバースは構造でしかない。“世界は少し違ってほとんど似ているが、人間のアイデンティティというものはどうあがいても絶対に別物”なのだと思う。あるゆる可能性のあった自分、は現在ではなく過去だ。賑やかで、温かいのに自分だけ寂しいような気持ち。互換は悪寒を呼ぶ。浅ましいだろうか。
ぼくはやはり、自分が自分ではないと指さされること、そしてこの世界のアイデンティティまでもがずり落ちてしまうことが恐ろしくて仕方がない。苦しいが、抜け出す方法が知りたいが、それはいまこの場所から、この自分の叫びなのだと。だから、救いはほしいにしろ手放しには喜べず、仕方なくこの手触りでjob to pack it 倒せずに愛せずに酒飲んで寝るかとりあえず。平熱を確認して。オール・アット・ワンスは愛おしく過納だ。
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