Habby中野

すずめの戸締まりのHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

すずめの戸締まり(2022年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

緊急地震速報が掘り起こす。忘れかけていた過去の事象ではなく、身体性と手触りを持った、いまこの足下にある記憶を。
(たぶん)これまで新海誠が描いてきたのは空間と時間の記憶─いまこの場所とかつて確かにここにあったもの─断絶されたそれらの(再)接続、そしてそれをただ踏み固めて人々が普段生きていることへの言及、忘却への糾弾だった。そして過去と現在の縦軸を、日本の具体的な土地の文化の独自性や発展の対比という横軸(青森─北海道、岐阜─東京など)へとパラフレーズし、一つの”現在”という舞台へ陳列してきた。こうした舞台を描くことはおそらく一つにはこの日本の大地の連続性とそこに生きる人々への希望のようなものであり、もう一つにはわかりやすさ、見やすさへの追求があったように思う。(彼は『千年女優」のようなある一点、一人や一箇所にこだわった記憶を描くことへは距離感を持っているのではないかと勝手に思っている。)
しかし一方でそこにはただ一つ、「手触り」がなかった。彼の目指すべきものは、しかし彼の絵筆の先で─制服の高校生、災厄の虚構化、恋愛物語の先鋭的な受容/需要で─溶けて薄まっていた。人々はそれを口に運ぶ途中で零してしまっていた。そうして沈澱していたものたちが今、「緊急地震速報」のアラーム音で目覚め、痺れを切らしたかのようにまさに閉まりきらない扉の隙間から這い出てきた。『すずめの戸締まり』はこれまでの地続きな文脈に対してその先端であり、超越でもあった。
日本に住む我々が数日に一度感じる大地の揺れ、危機を報せるアラーム音、戸惑い、そして揺り起こされる実在の大災害の記憶。この触覚・知覚・想起のグラデーションには時間がない。常にいまここで実感するものであり、昔どこかで起きたことのイメージではない、手触りとなる。ついに自発的に、自覚的に扉を─現在と過去の間仕切りを開けた映画は、一方で片脚を失い、一方で制服を脱ぎ捨てた者たちが旅に出る。身体に記憶を宿したを持つ我々とは対照的に、記憶そのものである「神」を追い、日本列島を北上する。まるで物理的に現在へ流れ出す過去を追うその旅は、土地ではなく信仰ではなく歴史ではなく夢ではなく、同時に生きる人々との邂逅を描き、生活を描き、この揺れる大地の上を滑るように移動していく。もはや爆音でかかるRADWIMPSは必要なく、ボロ車でかかるのは下手くそなハミングが混じった懐メロだ。
そして旅は一つの記憶の発端である地、仙台の現在へと向かう。道中で主人公の鈴芽は言う。
「この景色って、キレイなの……?」
それは小さな発見ではあるが、過去と現在の身体性が現した大きな気づきなのではなかっただろうか。
扉の向こうに、死んで行った記憶が見える。そこはあの世などではなく「常世」と呼ばれる、常にある(はずの)ものだった。悪役だった神を理解し、そして再び封印して物語は終わる。人は楔を知り、過去の現在性を知り、もはや過去は過去でなくなる。記憶はこの場所に、この身体と共にいまある。何かに代替させることなく。
鎮魂であり謝罪のような形のこの映画はこれまでの”新海誠”を捨てて、しかしそこに映るのは前々々世からの記憶だと、この身体に呼びかける。この真摯さは、願いなのだろう。
扉は締まり、「行ってきます」。
地震そのものではなくアラーム音にまず心を震わすようになったことを切なくも、大切なことだと思えた。過去は失うものではなく、今もなおここに続いているものだから。

「あなたはちゃんと大きくなる」
あれから12年が経つが、それは12年前のことではない。
Habby中野

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