開明獣

TAR/ターの開明獣のレビュー・感想・評価

TAR/ター(2022年製作の映画)
5.0
これは音楽に魅せられた、とある女性の魂の遍歴の物語。ネタバレを含んでるかもしれないので、未見の方はご注意を。

指揮者、映画監督、スポーツチームの監督、そして会社経営者などなど、組織マネジメントに携わる人には共通する悩みや行動様式が描かれている。完全無私で公平な運営など、人間である以上不可能だし、どんな組織にも必ず歪みは発生するもの。ただ、目的のために最善な選択をするよう努力するのがそれぞれの長の使命であり、リディア・ターも己の信じるがままにその決断を貫いてきたに違いない。会社の業績は経営者の才能が大きく影響する。スポーツもしかり。今回のWBCの優勝は栗山監督の手腕によるところが大きく、柔道も井上康生が監督になって強くなった。

クラッシックも同様で、オケの演奏の出来栄えは指揮者で決まるという。同一の曲を、某有名指揮者が振った学生オケと、見習いレベルが振ったプロのオケで、ブラインドで音楽評論家数名に聞かせるという企画があって、全員有名指揮者が振った学生オケの方に軍配をあげたと聞いたことがある。ターが世界最高峰のオケの一つ、ベルリンフィルのシェフという地位にまで昇り詰めたのは、素晴らしい音楽を創ってきたからに他ならない。

残念ながら、人生はABテストの出来ない決断の連続だから、その中で思わぬ拾い物をすることもあれば、判断ミスをすることもあり、様々な要因で上昇気流に乗ることもあれば、転がり落ちることもある。人生の先行きには諸所関係する因子が多すぎて想定不可能なので、どうしても運が大きく左右する。その為に、私達は理不尽だったり不条理な目に遭うこと暫しだ。本作の主人公、ターも例外ではない。そして、ターは頂点から転落していく。

だが、人生のどん底にあると思えた時、師と仰ぐ、名指揮者でもあり、作曲家(ウエストサイド・ストーリーがとみに有名)でもあった故レーナード・バースタインの言葉に再び心励まされて再起を決意する。再出発に用意された場所は、クラッシックの世界では檜舞台ではないかもしれない。だが、人種やジャンルを超えて、純粋に音楽と向き合う喜びをターを再び見出したのではないだろうか?

私は本作を音楽愛に満ち溢れた作品だと捉えている。色々な化粧が施されているけれど、その下の素顔は音楽という人類への贈り物と、それにコミットした一人の人間の救済と再生の物語なのだと思う。

クラッシック好きにはたまらない作品で、ところどころ、うんうん頷きながら観てしまったが、クラッシックを知らなくても、極上のヒューマン・ドラマとして楽しめるのではないだろうか?

傑作だったのだが、唯一の難点は字幕が酷かったこと。ドイツ語での指揮のシーンは、一切訳がなく、英語字幕も間違ってはないけれど、コンテクストから、これはどうかと思われるものが多かった。アカデミー賞候補となる作品には、まともな人に字幕担当させて欲しいものだ。
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