YasujiOshiba

モリコーネ 映画が恋した音楽家のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

-
イタリア版BD。本国では異例のヒット。ところが本邦では公開がのびのびになっている。待ちかねてBDを購入。しばらく積読状態だったものを見る。

いやこれはすごい。ジュゼッペ・トルナトーレの最高傑作じゃないだろうか。このトルナトーレはもともと写真から入り、ドキュメンタリーを撮るところから始めている。近づかず遠くから人間の内面をさぐるカメラ。そこからやがてフィクションの世界に入ってゆくのだけれど、そのカメラにはいつだって遠さがあった。

デビュー作の『教授と呼ばれた男』なんて、シチリア出身だからマフィアから距離をとり、ナポリのカモッラの世界にカメラを向ける。『ニュー・シネマ・パラダイス』は自分の子供の頃から離れ、トルナトーレの親の世代に向かう。『みんな元気』の脚本にはフェリーニと『アマルコルド』を作ったトニーノ・グエッラが独特の距離感を与えることになるし、意地を通してあがきながら撮った『記憶の扉』はこの世から離れようとさえしているではないか。

しかし、ほんとうは違うのだ。トルナトーレの距離感には歪んだ欲望がある。彼は世界に近づきたいのだ。人間に寄り添って、人間のなかにあるものを残酷なまでに見極めたいのだ。そしてそこに光を見たいのだ。愛せるものを愛しみたいのだ。

『エンニオ』にはそれがある。なにしろタイトルが「エンニオ」だ。28歳の歳の差があり、デビューした時には相手が巨匠であったとしても、「エンニオ」と呼べば「ジュゼッペ」と応じられるような、二人称の親称「tu」が結ぶ関係。

そこにはある種の対等で民主主義的な関係がある。どちらが上とか下とかではない。どちらが前にでるか退がるでもない。それはちょうど、モリコーネが影響を受けたドデカフォニア(12音階)の音楽に似ている。あらゆる音階を平等に使い、なにかの音階がドミナントになるようなこと(調整音楽)を避ける無調の音楽。

興味深いのはモリコーネの映画のための音楽の多くがメロディアスな調整音楽なのだけれど、そこにドデカフォニアの理屈を紛れ込ませたのだという。多くのアカデミックな音楽家は、そもそも映画音楽やポップスのアレンジなどは芸術あつかいせず無視してきた。ただ、アカデミックな音楽家でもあるニーノ・ロータだけが、調整音楽にまぎれこんだ無調音楽に気がつき、大変興味深いことだとモリコーネに告げたのだという。

ここに起こっていることを、イタリア語では「contaminazione」(融合・感染)という。違うものが触れ合い、相互に影響しながら、どちらも姿を変えてゆくこと。モリコーネは、その映画のための音楽に、音楽のための音楽をまぎれこませ、どちらにも影響をあえながら、それまでにない音楽を書いていたというわけだ。

それは Musica contemporanea (同時代の音楽) 。同じものは作らない。古きを訪ねながら新しいことに挑戦し続けること。それがエンニオ・モリコーネの音楽の秘密というわけだ。

それにしても、この秘密にたどり着こうとするトルナトーレのリサーチがものすごい。テレビのアレンジャーをしていたころの映像はもちろん、映画のための音楽がどのうようにして生まれたか、その新しさ、魅力はどこにあるのかを、モリコーネ本人に再現してもらい、インタビューを織り交ぜながら、音楽に合わせて挟み込んでくる映画のワンシーンの抜き方が、じつに見事で退屈させず、音楽を絵で示しながら、その魅力を目から伝えてくれるのだ。

あの編集をするために、いったいどれだけのフィルムを回し、どれだけの資料映像を確認したのかと思うと、ちょっと気が遠くなる。加えて、必要なエッセンスだけをスパッと抜いてくるためには、何が欲しいかある程度わかっていなければならないのだ。トルナトーレのシネフィル(映画愛好者)ぶりが、みごとな編集から伝わってくるし、見ているこちらも映画愛を刺激されてしまう。

ぼくなんかは「黄金のエクスタシー」でエクスタシーに達し、「アロンサンファン」のダンスシーンの裏話(タヴィアーニ兄弟はステップの音だけで十分だというとモリコーネがそれじゃこれを聞いてみろと曲をつけると、これがまためちゃくちゃすごいんだと笑いながら話す兄弟の嬉しそうな顔!)に、おもわず目頭が熱くなってしまったではないか。

それにしても、キューブリックが『機械仕掛けのオレンジ』の音楽をモリコーネに打診しようとしてレオーネに電話したというエピソードには驚いた。なんとレオーネはキューブリックに、モリコーネは今自分の音楽で忙しいから無理だと答えたのだという。けれどモリコーネによればそれは嘘。録音は終わっていたので、頼まれたら引き受けていただろうというのだ。

いやあ、モリコーネの『機械仕掛けのオレンジ』はどうなっていたのだろう。永遠に聞くことはできないけれど、想像する楽しさだけは残されている。いやほんと、いったいどんな響きになっていたのだろうか。
YasujiOshiba

YasujiOshiba