キネペンyiyi

ケイコ 目を澄ませてのキネペンyiyiのネタバレレビュー・内容・結末

ケイコ 目を澄ませて(2022年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

『ケイコ 目を澄ませて』最高でした。
ついに、三宅唱は自分なりのトニースコットの橋を建設するに至ったんだと思う。

橋とは、画面の中と今生きている我々の世界をつなげる橋のことだ。
つまり、映画のことだと言ってしまいたい。

この抜けの良さはなんだろう。
過剰に盛り上げも、盛り下げもせず、画面にこれを見よ、これを撮るんだという過剰な気合いのようなものが感じられず、少し心配になったが、それは一見してそうわからないぐらい作り込まれて描写されているからだったことに後半になってやっと気づいていく。

確かに少し考えれば、橋本来の用途に沿うなら前に進むよう強制したり、派手な見た目に飾り付けたりする必要はない、ただ用途に沿うように、ある種透明(橋が渡りやすすぎて当たり前に存在するようになり、存在感がなくなっていく)でなければいけないはずだ。

ケイコは何も特権的な行為や身振りをしない、過剰に英雄的でも、他人を貶める人としても描かれない。

ただ、会長に直接休みたいことを伝えに行こうと出来るだけの人である。
その直撃さ、つまり意志を持って橋に向かえる人間であるという奇跡がこの映画で描かれていることだ。

そして、そのケイコの真摯さによって、橋を使う我々の行動さえ、奇跡的な輝きを持つように照射される。

三宅唱はケイコを描くこともそうであるが、それ以上に脇役やエキストラに至るまで徹底的に演出した。
つまり、作り込んでいるわけだ。
そのために、ただ我々がただ存在している、生きているという次元と画面の中が接近しているので、もはや日常と近いため、静かな映画だと勘違いしそうになる。

しかし、そのことによって我々の日々の葛藤や、生きてることに引き裂かれることがより浮き出るようになる。

負けることができる、倒れることができる、その甘美なる瞬間。

倒れて、立ちあがろうとする。
負ける、倒れる、そしていずれ立ち上がろうとする瞬間を映し出す。
それをとてもシンプルで日常的にある身振り(停止も含む運動)に見出す映画