Habby中野

ケイコ 目を澄ませてのHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

ケイコ 目を澄ませて(2022年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

映画館からの帰り道に”耳を”澄ましたのはちょうど1年前の『メモリア』以来でなんだかふしぎな感覚がある。それと少し前にポッドキャストでたしかジョンケージが無音を求めた結果たどり着いたのは音だった─意識していた見知っていた音の最果てにあったのは身体が発する極小の有音だった、というような話を聞いた気がする。これはレビューではなくてメモ。または記憶、お、メモリア。
一体なにを見た?─紙の上を躓くボールペン、グラスを溶けて回る氷、床を擦る跳び縄、不快に軋むウエイト器具。(一定の人間にとっては)この映画が終始観客に注目(耳)を促すのは音だった。ミットを叩く音、電車の走る音、話し声、吐息。そしてそれは主人公ケイコの捉える世界とはかけ離れていて、その距離は近しくはないことは一目(耳)瞭然だ。この映画は耳の聞こえないケイコを描き、見つめ、感じさせるにも関わらず、決してそこに親密な介入をさせない。耳が聞こえない、ということを解らせようと描くことをしない。彼女の鋭くしかし少しきごちない(これが演技なのか俳優の実際の身体能力なのかは気になっている)ボクシングは痛みや高揚感の共感はあまり生まず、いつまでもボクシングの鑑賞体験、として観客席から距離を置く(試合会場の観客も─セコンドさえもわれわれと同じような位置に座らされる)。最も親しみの湧きそうな友人との飲食シーンではケイコは上の空で、聾者同士の会話に字幕はなく、そして何よりもあっけないほど短くおわる。われわれが─耳がそこまで不自由でなく手話を習得していない観客ができたのは、談笑の後景にある窓越しの都市風景の散漫な目撃と、おそらくは手相についての共感的でありしかし無個性である会話への想像だけだ。
「ケイコは目がいいんです」
「姉ちゃんみたいにみんな強くないから」
だれも嘘はついていない。虚勢でも保身でも妥協でもない、それなのにその上に表れるディスコミュニケーションというよりはアンコミュニケーション(?)。真剣さはしかし理解とは相容れるとは限らない。会長のインタビューシーンでは不自然に映像がカットされて驚いて声が出て、でもいやこれは不自然なのか、ニュースやドキュメンタリーではむしろ”自然に”それがなされているではないかと問う。それらとこの映画の違いは何なのだろう?いやいやもとよりわれわれは断片を現実と─現実は断片だと認識しているのだ、”カット”には違和感を抱いていても、それに意を唱えることは自己言及のブーメランとなるかもしれない。この映画も断片だ。ならばこの映画でカットされたものを眼差すことはどういうことなのか。捕縛されたリアリティの溝。編集によってつながれたものは何なのか。あるいはつながれなかったものは何なのか。
怒号や罵声が聞こえずに済むケイコには自らのパンチが当たる音もレフェリーの声も届かず、また自らの声は他者へ届かない。ないものがあり、あるものがある。おそらくこの映画のタイトルは彼女に呼びかけるだけのものではなく、喚起のような祈りのような、自己言及だ。見える者は目を澄ませ、聞こえるものは耳を澄ます。それは断片のあわいの空気、窓の外とこちら側とさらにそのこちら側との、遠近法をなくすことのような気がする。前進と逡巡と反省と発見を継ぎ接ぎして戦うケイコの姿を眼(耳)前にして、この映画も、その前のわれわれも欠落を自覚する。他者の欠落ではなく、世界の欠落を。
時折インサートされていた都市の風景はついにエンドクレジットの背景に、ただそれとしてだけ峻立する。昇華でも敷衍でも普遍でもなく、そこに街があること、世界があること。音が鳴り、光を湛え、陰を孕み、痛み、衰え、失われ、それでもある。それを感じるとしたら、この身体のどこでなのだろう。
Habby中野

Habby中野