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天使の涙 4Kレストア版のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

天使の涙 4Kレストア版(1995年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

 今まで意図的に避けてきた監督がいて、それはウォン・カーウァイとエリック・ロメールだった。理由は、明らかに美しすぎる画面と美しい男女の話が多そうで、映画館の暗闇に安住したい日陰者にとっては眩しすぎた。今回、自分もそろそろその美しい画面に浸ってもいいのかなと思い(変に固執する必要もないのだ)、意を決して劇場に足を運んだ。今度はロメールを克服する。

 調べたら「恋する惑星」から派生した物語らしく、脚本を継ぎ足して行って破綻し収束していく感じはかなり見て取れた。それはやや学生映画的な無鉄砲さもあり、強引でもあった。確固とした現実をロケーションに据えつつ、なんとも荒唐無稽な展開が起きる。虚構にリアルさを感じず、その場限りに起きる事象に困惑が続いた。キャラクターの存在も、出会いも別れもデタラメだ。そんな虚構の中で、逆説的に人々の刹那さに託つけた自由さ、つまり人間なんて素性知れない人ばかりなんだからこんな人間がいてもいいだろうという開き直りを感じた。そう感じた途端、彼らの荒唐無稽な自由さが羨ましくて、眩しくて切なく思えた。我々は日々雑踏に揉まれる中、何かが起きるのではと内心抱いているものだ。ヒッチコックが描いたような、主人公が事に巻き込まれていくあの展開をどこかで待ち望んでいる(つまりヒッチコックは人々の深層心理を突いてああいう物語をつくっていたのだ)。そんな我々の深層心理を具現化したかのように、彼らは自由奔放に振舞うのだ。

 そんな彼らは我々の深層心理であり理想像なわけだから、当然ながら”天使”の姿をしていなければならない。その圧倒的美男美女ぶりよ。色気しかない、もちろん画面は文字通り色彩に満ちている。色気とは電飾なのだ(?)。美男美女はその電飾に染まり、一歩人であることから離れる。逆にモノクロシーンでは被写体の人物はより人間味があったように思う(唯一彼らの心情が露呈する際にモノクロが多かったように思う)。対比として描かれる殺し屋の同級生のウザさは返って醜悪すぎるぐらいだ。嫌味な存在は私たちをより天使へ没頭させる。それはより世間から孤立していき自壊する男女の心中のようなものではないだろうか。ラストのバイクシーンはノーヘルだし、いつ死んでもいいという気概がある気がした。エージェントと殺し屋の関係は仕事と愛を履き違えていてエモいのだが、傍の死の雰囲気がより彼らを引き合わせていたのではないかと思った。

 冒頭の編集のズタズタ感。音楽の寸断、唐突なタイトルクレジット含め、ぶつ切り状態だ。しかし、ウォン・カーウァイの作風とはつまりそういうことなのだろう。ショットの寸断にはつまり、それらが単体で成り立つ魅力を持つということだ。不意にコマ落としスローで映像がブレを残して再生されるのも、映像よりも写真的な表現に寄っていると思う。ウォン・カーウァイ作品のスチール写真はよく見るが、ショットそれぞれが全て写真に近いのだと思った。シンディ・シャーマンが、写真の中で何かを演じ、まるで映画のスチールのような写真集を作ったのとは逆で、そのようなスチール写真に実際に物語を当て嵌めていったのが今作だったりするのではないだろうか。物語よりもまず撮りたい画があるように思える。ちなみに、ラストの男女がバイクに跨ってトンネルを行く広角でのショットは、映画内では一瞬だった。しかし、その刹那感と、男の加えたタバコの煙を逃さないカメラワークと、その後広がる空という一連に神懸かりを見た。よくあのタバコの煙を逃さなかったものだ(この煙が彼らの身軽かつすぐに消えてしまうような存在感を雄弁に語りうる)。しかしこうして見ると、映画も多分に写真に近いショットが多いが、そのスチール写真はもっともっと何か多くを語る魅力があるように思える。それは本編を凌駕しかねない程に(ロラン・バルトもスチール写真と映画の違いを論じていたが、あまり思い出せない)。

 その画を彩るのは色彩だけでなく、音楽もだろう。殺し屋のエージェントが自慰にふける前のシーンでの恍惚はほぼ彼女のプロモーション映像、MVのようだった(Laurie Andersonの「Speak My Language」はほぼフル尺で掛かっていた、そしてベストマッチ!)。またラストのFlying Picketsの「Only You」も、今作の天使たちを許し肯定する救済の曲として相応しかった。今作はエコーのかかった曲が多い。我々も没入という名の下にそのエコーのかかった空間を共有し、同じく救われた気になるのだった。それで言えばあの近距離ショットの連続も、我々に迫る何かがあった。つまり俯瞰するには近すぎる距離なわけで、我々は理性を捨てエモーションに酔いしれるのだ。音と画ともに我々を逃させない。

 金城武演じるモウや、カレン・モク演じるオレンジ色の髪の女の過剰さ。今作の中でも特に現実味の無い浮遊したキャラだ。しかし、この二人が特に忘れ去られることへの恐怖を抱いていて、それ故に愛おしい存在として描かれている。オレンジ色の髪の女はキャラクター名すら無く、一度殺し屋と会ったことがあるらしいのだが既に忘れられており、そのために髪を染めている。彼女は雨のシーンが多く、濡れながらも笑う彼女の姿はチャップリンの悲哀に近いものを感じた。そんな彼女が殺し屋に忘れないでと懇願するのだが、胸が痛む。何故なら、その殺し屋は死んでしまうからだ。彼女のことを覚えてる主要登場人物はいないのだ。同じくモウも、散々付き合った彼女にフラれ、久々の再会では全く忘却されている。その傍で撃たれるフリをしておどけるモウは、喜劇的なだけあって悲劇的だ、こちらもチャップリンの悲喜劇と似ている。あと登場人物のナレーションがやたらと多いのだが、これまた忘れられることへの恐怖故に饒舌な気がする。

 しかし、そんなモウはカメラを手にして日々を記録するようになる(忘れられることへの危惧からか)。父を撮ったり自分を撮ったり。ここにはカメラを持つ意思、つまりこの映画自体のメタファーがあるように思えた。それはカメラによる記録、つまり”覚えている”ということだ。父が夜中に記録された自身の映像を見て笑っていたのは、自分を見つめた息子の存在とそこに浮かび上がる確固とした自己がいたからだろう。つまりカメラという他者によって自己という存在が肯定されたということだ。その後、まるで思い残すこともないかのように父は死ぬのだ。今作の一見めちゃくちゃなキャラクターたちも、愛おしく思える。忘れないでという問いに応答できるのは、まさに私たちの目だけなのだ(断片的な物語の集積という点、忘れないでという問い、ある意味フェリーニの「アマルコルド」のような題材だったのかも)。

 映画館を一人出て、やや小雨気味な劇場を出た時、あのバイク二人乗りの祝福を自分は受けられないという孤独感がすごかった(オレンジ色の髪の女の気持ちに近い)。寺山修司の「書を捨てよ町へ出よう」の冒頭の「ほら、横の人にちょっかい出してみなよ」という挑発よりよっぽど残酷な気がした。何故なら劇場を出たら"横の人"すらおらず、"ちょっかい"すら出せないのだから。二人乗りして頭をもたげられないのだから!
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