TnT

一人息子のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

一人息子(1936年製作の映画)
-

このレビューはネタバレを含みます

 大号泣してしまった。流石に一人っ子かつ母に女手一つで育てられた身としてはちょっと直球すぎた。息子が言う「自分が何になるのか全然見当がつかない」を今現在体現中なのもまた然り。

 ほんとでも、戦前小津映画は市井の人々の実態を伝えてくれるなぁと。製糸工場の労働の、あの作業音と女性らの背中。最初はその中の一人の物語が切り込まれて行くが、ラストで再び製糸工場の労働を見ると、その背中は女性というだけでなく母の背中へと変貌して見えるのである。今作は、モチーフの意味合いの変化が残酷かつ巧みに施されており、徹底された完成度を伺える。他にも馬のポスターが何の気なしに息子宅に飾られているのだが、ご近所さんのご子息が馬に蹴飛ばされて以降、ポスターの馬もまた不条理の象徴と化してしまう。
 
 そうした遅れてくる意味合いみたいなのが、伏線回収じゃないけど張り巡らされてるなと。そのせいか母は息子からいつも真実を遅れて知らされる。小学校行きたいことを知るシーンの驚いた顔は面白いが、妻子持ちを後で知ったその姿は喜劇ではなく悲哀である。どのシーンも音が先立ち、そのあとに映像が映し出されるという構造になっていて、それが画面への関心を持たせてる。啜り泣いてる声がしてはじめて息子の妻の姿が映し出されたり。しかしその中で、冒頭、息子が嘘をついて二階へと上がる階段の音は、登るシーンと連結しないまま、延々と鳴っていた。ある種効果音ではなく劇伴だったと片付けてもいいが、子供はそうやって延々と母から離れていくのだ、ということを表してるんだとしたら、悲しいことである。そして、遅れてくる大切さみたいなのは、母がいなくなってわかるのだというシビアすぎる結末を我々に残して映画は終わる。母は腹のあたりを押さえ少しばかりの休息を得る。その後に映し出される大きな門のフィックスの画は、母と息子を閉ざす大きな壁であることを自明とする。そして二度と母が息子を訪れなかった(「これで安心して目を瞑れるわ」と言った母が本当に瞑ってしまった世界線)という結末を明示したのが「東京物語」なのだろう。「坊や、でかくなったら何なるだ」という殆ど「東京物語」と同じ台詞さえ出る。

 時の残酷さでいえば、笠智衆演じる教師が東京でトンカツ屋で細々暮らす姿がまた痛ましい。無精髭に、人前で顔を洗う姿といい、見窄らしい。教師が最終的にトンカツ屋になったのを倣うように、息子も役所仕事から教師へと転落している。「なるようにしか、ならんもんですな。はは」というかつての恩師の言葉は重くのしかかる。こちらのモチーフは「秋刀魚の味」の教師へと引き継がれる。

 小津映画、全員が項垂れるような、世に打ちのめされる悔しさにブチ当たるシーンがある。大人三人がオイオイと、どうしようもないことの前にオイオイと泣く中、赤子の夜泣きのまじないのビラが皮肉を持って映し出される。その傍らで赤子は一度も泣かずに寝続ける。これだけ市井的な生活でありながら、ここまで打ちのめされる葛藤を避けてきているのだなと、自身の人生をいつも振り返らされる。

 その後、出かけるためのお金をお隣の子の治療費に当てた息子の姿が、母の背中越しに映し出される。そこがなんだか号泣ポイントだった。あ、この子はもう立派に育っていたんだ、というのを母の背越しに見ることのなんたる重み。そして、ああそういえば優しく育つことをよく親に言われたなぁと思って、そのことを忘れて金のことばかり考えてた自身との距離にやられた。人に優しくしてもいいんだなと許された気になったのだ(このSNS時代において殆ど振り返り損ねていた貴重な優しさを思い出したと言えるか)。この、怪我した隣人の母の着物が涙で濡れていたりするのがまた細かいというか。そんでもって、この苦心した金、妻が売った着物で得た金で、もっといえばその着物を作る糸を作っているのが母であり、母の労働が遠巻きに全てを紐付けていたのかもしれない。

 ここで出世だけが世じゃないよとなった時、あのトンカツ屋になった先生への蔑視的な態度も恐らく解除されると言えて、それは彼のようになることを拒絶しない、ということなのかもしれない。トンカツ屋に”なってしまう”という言い方ではなく、世間に優しい生き方をへし折られないという意味で。笠智衆演じたあのトンカツ屋も、立派な生き方なんだ。

P.S.
そうか、これが小津安二郎の初トーキーなのか。ここから一切がブレてないの凄いな。劇中映画で手にキスするシーンは、過去の母と息子の間に結ばれた手を想起させる。
TnT

TnT