ariy0shi

窓辺にてのariy0shiのレビュー・感想・評価

窓辺にて(2022年製作の映画)
4.5
『窓辺にて』のテーマは「手放す」。そう聞くと、せっかく手に入れたものを捨ててしまうという、どこかネガティブな印象を与えるものだが、同時に「手放すことで、手に入れられるものもある」ということが、この映画の言わんとしていることだと思う。

フリーライターである主人公の市川茂巳(稲垣吾郎)は、あることを手放すことができないでいたのだろう。淡々と、しかし同時にどこか悶々としていた彼の背中を押したのが、高校生の小説家として注目を浴びる久保留亜(玉城ティナ)。動けずにいる年上男の手を引く若い女、という構図は、『はじまりのうた』などと同じである。

茂巳や登場人物たちが、何を手放し、何を手に入れたかは映画に譲るとして、この作品を不思議と感じる理由は、この「手放す」が持つイメージだ。

例えば別の言葉で、「選ぶ」を考えてみたい。「選ぶ」とは、ヒトやモノやコトを「手に入れる、選び取る」ということ。例えばキャリアとか、結婚とか、住処とかは、自分の意志で「選んでいる」のであり、この行為を否定的に捉えることは一般的ではない。むしろ選択できることは、迷いも生じるが、いいことである。

しかし、「選ぶ」の裏側には、「その他の可能性を捨てる」ということが含意されている。
結婚した相手を「選んだ」と同時に「ほかのひととの関係性を放棄した」、と書くと既婚者ならドキッとするかもしれない。後者があまり表立って語られないのは、まあやはり、後ろ向きだからなのだろう。

つまり、「手放す」ことも「選ぶ」ことも、同じような意味を持ち合わせていながら、与える印象が異なる。かたやネガティブ、こなたポジティブ。でも中身は似たようなものである。
人生は、語り口(手放す or 選ぶ)を変えても、実は似たようなパスを通るものなのかもしれない。

鏡のなかでは実像と左右が逆になって認知されることはよく知られたことで、自分が鏡を通して見る自分自身と、他人から見える自分は違って見えている。「手放す」と「選ぶ」も、これと同じような関係性にあるのではないか。

この映画では、前向きで能動的な人生のあり方(選ぶ)ではなく、どこか受け身で普段ひとが見ないようにしている生き方(手放す)に焦点をあてている。

そしてこの作品は、「もう選んでしまったひと」への福音にもなっている。選び取ったものをずっと持ち続けるのではなく、もし手放した方が良ければ、そうしてもいいかもしれないよ、と慰めてくれる。
もちろん、手放すかどうかはそのひと次第だし、「選んでしまったひと」が全員手放したがっているわけでもない。ただ、そう言ってもらえるだけで救われることはあると思うし、実際、救われた人間がここにいる。
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